皇統の危機 



2000年以上続く、我が国の皇統(こうとう)の長い歴史の中で、それを維持することが難しくなったことが何度もありました。現在もしきりに騒いでいる連中がいますが、現在の危機などは過去のものに比べれば、大した問題ではないのではないでしょうか。最近だと、明治天皇の御代でしょうか。
詳しくは当チャンネルの別の動画をご覧ください。

第20代安康(あんこう)天皇から第25代武烈(ぶれつ)天皇の御代が最初にして最大の危機でした。

安康天皇は仁徳天皇の孫世代、武烈天皇は玄孫(やしゃご)、つまり孫の孫世代になります。

応神(おうじん)天皇の皇子(おうじ)の一人だった大雀命(おおさざきのみこと)は、次期天皇に、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が急死したため、天皇に即位しました。茨田堤(まんだのつつみ)や民の竈(かまど)などの事績でも有名な天皇で、初めて宮を大和に置かず、難波に置いた天皇でいらっしゃいます。
山城や大和で、大規模な治水目的の土木工事が行われ、灌漑設備を各地で整え、河内平野を穀倉地帯にする、等の様々な事業が行われました。

更に仁徳天皇は、支那の宋(そう)に朝貢(ちょうこう)した「倭の五王」の最初の王「讃」(さん)ではないか、と言われております。朝鮮半島の権益を確実なものにするため、宋の権威を利用しようとし、本格的な外交も始めました。

第17代天皇が仁徳天皇の第一皇子(おうじ)の履中天皇(りちゅうてんのう)で、その第一皇子が市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)です。履中天皇は即位前に弟の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)と皇位をめぐって争いました。住吉仲皇子の軍が押し寄せ、履中天皇は石上神宮(いそのかみじんぐう)に逃れました。石上神宮(いそのかみじんぐう)といえば、神代三剣(かみよさんけん)の天羽々斬(あめのはばきり)と布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)の二振(ふたふり)が納められています。
履中天皇は他の弟である水歯別命(みずは・わけのみこと)に命じ、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)を暗殺させます。水歯別命は住吉仲皇子の側近を懐柔し、主を殺させます。

履中天皇は正式に即位することが出来ましたが、即位して6年後に崩御。「日本書紀」には、大和の国の磐余(いわれ)に都を造った、とか、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた、等の記述がありますが、「古事記」には即位後の記述が非常に少ないです。

次の第18代天皇が水歯別命(みずは・わけのみこと)こと反正天皇(はんぜいてんのう)ですが、在位5年で崩御しており、「古事記」にも「日本書紀」にもほとんど事績はなく後継者も指名しないままでした。

それで次の第19代天皇も仁徳天皇の皇子(おうじ)の允恭天皇(いんぎょうてんのう)でした。第20代になってようやく仁徳天皇の孫の世代になります。当初は允恭天皇の第一皇子(おうじ)の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)が即位する予定だったのですが、木梨軽皇子は同母妹(どうぼまい)の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって、伊予国姫原へ流刑となってしまい、結局、弟の皇子(おうじ)の穴穗御子(あなほのみこ)が安康天皇(あんこうてんのう)として、即位することになりました。

古代日本でも近親相姦はタブーだったのかというと、母親が同じだとダメだったようですが、父親が一緒でも、母親が違えば問題なかったようです。結婚も出来たようです。

ようやく皇統が仁徳天皇の孫世代に移りました。

穏やかな名前である第20代天皇安康天皇(あんこうてんのう)から、皇統断絶の危機が始まることとなります。安康天皇が悪い訳ではありませんでしたが、その弟が実に問題のある天皇でした。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)こと、第21代天皇雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)です。結果的に、神武天皇から続く男系の皇統を断絶の危機に追い込むことになります。

安康天皇が即位し、天皇の弟の身分になった大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は、反正天皇の娘たちを自分のものにしようとしました。が、皇女(ひめみこ)たちは、大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)の誘いを断るだけでなく、身を隠してしまいました。

「古事記」「日本書紀」を「万世一系の皇統を正当化するために書いた」などと主張している日本の歴史家たちがいかに、いい加減なのかを証明しております。

従妹の皇女(ひめみこ)達にフラれた弟の大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)のために、安康天皇は嫁探しに乗り出します。次に白羽の矢が立ったのは、仁徳天皇の息子の一人、大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)でした。

最終的には、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は雄略天皇の皇后となるのですが、ここから、大変な事になっていきます。

安康天皇は草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)に嫁がせてほしいと大草香皇子(おおくさかのみこ)に、根臣(ねのおみ)を遣い(つかい)として送ります。根臣は大草香皇子の屋敷を訪れ、安康天皇の御言葉を伝えました。

「汝が命の妹、若日下の王を大長谷の王子に婚わせんと欲う。故、貢るべし」

現代語訳:「お前の妹の若日下王(ワカクサカノミコ)を大長谷王子(オオハツセノミコ)と結婚させようと思う。よって献上しなさい」

大草香皇子(オオクサカノミコ)は四回拝んで言いました。

「若しかくの大命有らんかと疑えり。故、外に出ださずして置けけるなり。是れ恐し。大命の隨に奉進らん。」

現代語訳:「もしかして、このような重要な命令があるのではないか?と想定していました。だから(妹の若日下王を)外に出さずに置いていました。畏れ多いことです。命令のままに奉りましょう」

しかしこの言葉だけでは無礼に思ったので、その妹の礼物(アヤモノ)として押木玉鬘(オシキノタマカズラ)を(根臣に)持たせて献上しました。根の臣はその礼物の玉鬘を盗み取って大日下王を貶めるように報告して言いました。

「大日下の王は勅命を受けずして曰く、『己が妹をや、等しき族の下席と爲すや』といいて、横刀の手上を取りて怒りつるか。」

現代語訳:「大日下王は勅命(オオミコト)を受けないで言ったのです。
『わたしの妹を、同列の氏族の下働きにできるか』と横刀(タチ)の手上(タガミ=柄)を掴んで怒っていました」

天皇はとても怒って大日下王を殺して、その王の妻の長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)を取り上げて皇后としました。

長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)には連れ子、目弱王(マヨワノキミ)がいました。眉輪王は父親が殺されたのを恨み、寝ていた安康(あんこう)天皇を殺害してしまいました。

「古事記」によると、目弱王(マヨワノキミ)はまだ七歳だったのですが、ある日、安康天皇が、后である長田大郎女に秘密を口走ってしまいます。

「吾は恆に思う所有り。何となれば、汝の子、目弱王(マヨワノキミ)、人と成りたらん時に、吾が其の父の王を殺ししを知らば、還りて邪しき心有らんと爲すか。」

現代語訳:「わたしは常に(不安に)思うところがある。何かというと、お前の子の目弱王(マヨワノキミ)が成人したときに、わたしが父を殺したことを知ったならば、(心が)変わって邪(ア)しき心(=反逆する心)になるのではないか?」

宮殿の下で遊んでいた目弱王はこの言葉を聞いて、すぐに密かに天皇が寝ているのを伺って、その傍らにあった大刀(タチ)を取って、その天皇の首を打ち、坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)の家に逃げ込みました。

目弱王(マヨワノキミ)に兄の安康天皇を殺されてしまった大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)はもの凄く怒り、兄の八釣白彦皇子(やつり の しろひこ の みこ)が安康天皇暗殺の黒幕ではないか、また彼が皇位を継ごうと企んでいるのではないか、と疑われて斬り殺されました。

八釣白彦皇子が弟に切り殺されたのを知った、もう一人の兄、坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)は、自分も殺されると思い、目弱王(マヨワノキミ)を連れて、大臣(おとど)の都夫良意富美(ツブラオオミ)の屋敷に逃げ込みました。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は刀を振りかざし、坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と目弱王(マヨワノキミ)の両名を引き渡すことを求めましたが、都夫良意富美が遣いを出して答えました。

「然れども其の正身の參い向かわざるゆえは、往古より今時に至るまで、臣・連が王の宮に隱れしを聞けども、未だ王子の臣が家に隱れしを聞かず。是を以ちて思うに、賎しき奴、意富美は力を竭して戰うと雖ども更に勝つ可く無けん。然れども、己を恃みて隨が家に入り坐しし王子は、死ぬとも棄てじ。」

現代語訳:「しかし、私があなた側につくわけにはいきません。古くから現在に至るまで、臣・連が応急に隠れたという話は聞きましたが、まだ王子が臣の家に隠れたなどという話は聞いたことがありません。思うに、卑しい奴である意富美(オウミ=自分のこと)は力を尽くして戦っても勝つことは無いでしょう。それでも自分を頼みにして我が家に逃げ入って来た王子(=目弱王)は死んでも棄てません。」

家来の下(もと)に皇子が逃げ込むなど、いまだかつて聞いたことがない。自分を頼って来た皇子を見捨てることなど出来ません、といった訳ですが、大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)はもちろん激怒。都夫良意富美の屋敷に火をつけ、皇子たち、もろとも焼き殺してしまいました。

その暴虐振り、暴力性で雄略天皇を超える人物は、日本史上、存在しないのではないでしょうか。

かつて、安康(あんこう)天皇が履中(りちゅう)天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)に皇位を継がせようとした事をかねてから恨みに思っておりました。
それで、大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は従兄の市辺押磐皇子を狩りに誘い出し、射殺してしまいました。更に、市辺押磐皇子の弟の御馬皇子(みまのみこ)も謀殺しました。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は皇族の皇子を自分以外は片っ端から殺してしまったという事です。で、自分の政敵になりそうな者を全員排除した上で、第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)として即位しました。雄略天皇以降は「日本書紀」の年号が春秋年ではなく、今と同じように数えられていると言われております。「宋書」のよると西暦477年に倭国が朝貢し、兄の「興 (こう)」、つまり安康天皇が崩御され、弟の「武(ぶ)」が王に立った、と書かれています。

雄略天皇の治世は23年続きましたので、ちょうど5世紀末の天皇という事になります。

即位前に同族の皇子を全員謀殺した天皇で、即位後も相変わらずの暴虐ぶりだったのですが、公務には意外と熱心で、国内で養蚕(ようさん)を盛んにし、有力豪族をことごとく屈服させ、大和王朝の権威を著しく高めました。

外交面でも、高句麗(こうくり)に攻撃された新羅(しらぎ)を救い、かと思えば、今度は新羅を攻め、支那の宋(そう)からの使者をもてなし、高句麗に滅ぼされた百済(くだら)を復興する、等、雄略天皇の御代は、なかなか華々しい御代でもありました。

1968年に、埼玉県行田市にある埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の稲荷山古墳(いなりやまこふん)で発見された鉄剣に、

獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
(ワカタケル大王の寺、シキの宮に在りし時、吾、天下を左治せり。此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。)

年代に関しては「辛亥年」とあるので、西暦471年。「宋書」の倭王武の時代と一致します。

雄略天皇が崩御され、白髪武広国押稚日本根子皇子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこ)が第22代清寧天皇(せいねいてんのう)として即位なされます。

清寧天皇は后も皇子も持たないまま。お隠れになりましたが、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)には二人の皇子がいました。億計王(おけのみこ)と弘計王(をけのみこ)です。雄略天皇が殺した市辺押磐皇子に皇子がいたのを知った清寧天皇は、二人の皇子を宮中に呼び、後継ぎにしていました。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)なら、まだ残っていたのか、と殺してしまうかもしれないのに、清寧天皇(せいねいてんのう)は、随分穏やかな帝(みかど)でした。二人の皇子は父親が殺された後、雄略天皇を恐れ、播磨国(はりまのくに)で牛飼いをしながら身を隠していました。

清寧天皇がお隠れになった後、弘計皇子(をけのみこと)が第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)として即位しました。ところが、わずか三年で崩御し、兄の億計天皇(おけのみこと)が第24代仁賢天皇(にんけんてんのう)として即位しました。

短命が続くというのは、古代日本にしては珍しい例です。

仁賢天皇も十年ほどでお隠れになり、皇位は皇太子の小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)が第25代武烈天皇(ぶれつてんのう)に引き継がれ、即位することとなりました。武烈天皇は仁徳天皇の玄孫(やしゃご)となります。

武烈天皇の記述が「古事記」と「日本書紀」の記述がまるで違っており、大変興味深いのですが、いずれにせよ、武烈天皇が跡継ぎを残さずに崩御されてしまった事で、神武天皇以来続いていた男系の皇統は断絶の危機を迎えることとなりました。

一番悪いのは雄略天皇です。雄略天皇が自分の兄弟や従兄たちを皆殺しにしてしまった結果、皇統の断絶が問題化するようになってしまった訳です。 

事の発端は、根臣(ね の おみ)が「押木玉縵」(おしきのたまかずら)をネコババしようとした事ですが。諸悪の根源です。大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は元々、暴れん坊として有名だったのですが、少なくとも、根臣が火をつけた事だけは間違いありません。

根臣は、その後、「日本書紀」によると、宋からの使者が来た際に、わざわざ「押木玉縵」(おしきのたまかずら)を身につけて出迎え、大草香皇子(おおくさか の みこ)の妹にして、雄略天皇の皇后、若日下(部)王(わかくさかべのみこと)が、大草香皇子が結納品として用意したものだと見抜き、雄略天皇に誅殺されました。
このネコババで七名もの皇族が死に、挙句の果てに皇統断絶の危機を迎えることになってしまったのだから、もの凄く罪が重いです。

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