継体天皇



雄略(ゆうりゃく)天皇は殺戮でも有名でしたが、日本の最古の歌集「万葉集」に天皇本人の和歌が掲載されています。

「籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも」

現代語訳:籠よ、立派な籠を持ち、掘串(ふくし)よ、立派な掘串をもって、この岡に菜を摘んでおられる娘よ。家と名前を申せ。この大和の国は、すべてこのわれが治めているのだ。全体的にわれが支配しているのだ。まずはわれこそ、家も名も教えてやろう

雄略天皇が皇族男子を皆殺しにしてしまったために、男系皇統を維持することが非常に難しい状態に追い込まれるというのに、ナンパの和歌とは…。お気楽なようで。

さて、小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと)こと、第25代武烈(ぶれつ)天皇で、仁徳天皇系の男系の血筋は断絶してしまいますが、その武烈天皇、「古事記」と「日本書紀」の記述が全然違っております。

「古事記」では、

「小長谷の若雀の命、長谷の列木の宮に坐しまして、天の下治しめすこと捌歳なり。
此の天皇に太子无し。故、御子代と爲て小長谷部を定めき。御陵は片岡の石坏の岡に在り。」

現代語訳:「小長谷若雀命(オハツセノワカサザキノミコト=武烈天皇)は長谷の列木宮(ナミキノミヤ)に居て8年の間、天下を治めました。
この天皇に太子(ヒツギノミコ=皇太子)はいませんでした。御子代(ミコシロ)として小長谷部(オハツセベ)を定めました。御陵(ミササギ=墓)は片岡の石坏(イワツキ)の岡にあります。」

と書かれているのみです。それに対して、「日本書紀」では、まるで、中国史の悪逆皇帝のように、武烈天皇の非道、暴虐ぶりが書かれております。

「日本書紀」には、このように書かれています。

即位2年9月 妊娠した女性の腹を割いて胎児を見る。
即位3年10月 人の生爪を抜いて、芋を掘らせる。
即位4年4月 髪を抜いて、樹の頂上まで登らせて、木を切って倒して人を殺して楽しむ。
即位5年6月 人間を水路に入らせて、矛で刺し殺して楽しんだ。
即位7年2月 人間を木に登らせて弓で射落して笑った。

これは、ほぼ確実に創作だと思われます。例えば、安康天皇から雄略天皇にかけての混乱は、細かい点は多少違っていたりしても、「古事記」と「日本書紀」では、双方の記述が一致していますが、武烈天皇の場合、全く違っております。つまり、「日本書紀」の編纂者たちが創作したものと思われます。

「古事記」と「日本書紀」は、ほぼ同じ時期に編纂されましたが、ともに、まだ残っていた当時の歴史書や伝聞を下に書かれました。「日本書紀」は正史であり、「古事記」に比べると政治色が強かったのは確かです。ということは、武烈天皇については、次の天皇の正当性を強化するために、様々な暴虐な話が加えられたという説が最も有力なものとなっております。

「日本書紀」に載っている武烈天皇の数々の話は、支那の歴史書の影響が強かったのではないでしょうか?

紀元前1046年に滅んだ、殷(いん)の最後の王、紂王(ちゅうおう)は愛人である絶世の美女、妲己(だっき)とともに、日夜宴会を開いて乱交に耽る、悪逆非道の国王と史書に記されております。酒、淫楽(いんがく)、婦人におぼれ、酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑は、紂王の行った悪事の象徴的な言葉とされています。

紂王の叔父である比干(ひかん)が紂王を諌めたが聞き入れられず、「聖人の心臓には7つの穴が開いているそうだ。それを見てやる」といって比干を殺害したり、という話も残っております。

ただ、支那の各王朝最後の王は、後世、悪逆とされるのが常であり、実態は不明ですが。

支那は易姓革命(えきせいかくめい)の国であり、王朝が変わるたびに、新たな国王や皇帝は自分を正当化するために、滅ぼされた旧王朝の最後の君主を、歴史書に悪く書かせる事が普通であり、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)はもちろん、次の王朝である周(しゅう)の分裂を引き起こした幽王(ゆうおう)も、愛人の褒姒(ほうじ)を笑わせるために、何度も嘘の非常招集をかけ、国中から諸侯を呼び寄せ、余りにもそれが繰り返されたため、そのうちに諸侯が招集に応じなくなり、結果として滅んでしまった、という話が歴史書に載っています。

ちなみに、殷の妲己(だっき)や周の褒姒(ほうじ)など、中国の歴史には、国家を滅亡に追い込むような美女が何人も登場します。この種の美女の事を「傾国傾城」(けいこくけいせい)と言います。

「日本書紀」にある武烈天皇の描写は、実に支那の史書的です。しかも「古事記」には、全く書かれておらず、特定の政治目的があって、暴虐者としての出来事が後から挿入された、と考えるべきなんでしょう。

特定の政治目的とは、もちろん、武烈天皇の次、継体(けいたい)天皇の正当化です。
「継体天皇の権威を高めるために、その前の武烈天皇を悪い天皇としたかった」ということでしょう。

という訳で、安康(あんこう)天皇、雄略(ゆうりゃく)天皇により引き起こされた男系皇統の危機に、我々の先人がいかに対応したか、ですが、武烈天皇が崩御された時点では、仁徳天皇の子孫は男系男子では一人も残っていませんでした。女子はいましたが。例えば、後に継体天皇の皇后となる手白香皇女(たしらかのひめみこ)は仁賢(にんけん)天皇の皇女(ひめみこ)で、武烈天皇の姉に当たります。

女子の皇族はいましたが、当時の日本人も男系を頑張って維持し続けた訳です。

当チャンネルの他の動画でも語っていますが、「皇族と無関係な男性を排除したかったから」というのが答えです。男系皇統の維持は、女性差別でも何でもなく、一般の男性を皇族から排除しているのであって、「皇位簒奪」などと良からぬ事を考えるのは、基本的に、皆男性である、というのが理由です。

もう一つ、男系皇統以外を認めない理由には、継承戦争(けいしょうせんそう)を避けたかったから、というのもあるでしょう。

皇族の女性が各地の豪族、わかりやすく言えば、外国の王室に嫁いだとします。欧州の王室では普通の事でした。「女系でも良い」という事にすると、他国に嫁いだ女性の子供にも、日本国の皇位の継承権があることになるので、外国から「我が国の王子には日本の天皇になる権利がある」といって戦争を起こされる、という話になります。

実際、王家同士の婚姻が繰り替えされた欧州では、自らの王位継承を主張し、他国に攻め込む皇位継承戦争が、何十回も起こっていますから。

ちなみに、現在のイングランド王室の先祖はノルマンディー公ギヨーム2世、後(のち)のウィリアム1世は、フランスからイングランドに攻め込む際に、血縁関係を理由に自らの王位継承権を主張してイングランドを征服しました。

要するに、女子に継承権を認めてしまうと、嫁ぎ先で出来た子供にも継承権が出来てしまって、攻撃する大義名分を与えることとなる訳です。

それが男系しか認めず、男子は天皇とならなくても、天皇を守護する藩兵(はんへい)として、皇室に残るとなると、継承戦争は絶対に起きません。

実際、二千年を超える日本の歴史において、継承戦争など、起きたことがありません。もちろん、皇位をめぐる男系の皇族同士の争いはありましたが、外国勢力など、皇室に無関係な連中から介入された事は一度もありません。

というわけで、武烈天皇が崩御されて、当時の日本人は困ってしまいました。仁徳天皇の子孫に男系男子が残っていない、となると、更に一代前、応神天皇にまで遡る必要がありました。応神天皇の五番目の皇子(おうじ)が、稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)です。ちなみに稚野毛二派皇子の皇女(ひめみこ)の一人、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇后でした。つまり、大泊瀬幼武尊 (おおはつせわかたけるのみこと)こと、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の母です。

応神天皇の皇子(おうじ)にして、仁徳天皇の弟君であらせられる稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の四代あとの子孫が袁本杼命(をほどのみこと)でした。袁本杼命(をほどのみこと)は、一応、皇族ではあったのですが、越前国(えちぜんのくに)を治めておられました。高貴な生まれではあったものの、朝廷のあった大和から離れていたため、安康(あんこう)天皇から雄略(ゆうりゃく)天皇までのゴタゴタに巻き込まれることもなく、近江国(おうみのくに)で生まれ、越前国(えちぜんのくに)で育ちました。

袁本杼命(をほどのみこと)について、「日本書紀」では、

「天皇壯大、愛士禮賢、意豁如也」
現代語訳:「天皇は壮大(オトコザカリ=壮年)となって、士(ヒト)を愛で、賢(サカシキ)に礼を払って敬い、心広く心豊かでした。」

とあります。

武烈(ぶれつ)天皇が崩御され、男系の継承者がいなくなった段階で、大連(おおむらじ)の大伴 金村(おおとも の かなむら)が言うには、

「方今絶無繼嗣、天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今、足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波国桑田郡。請、試設兵仗、夾衞乘輿、就而奉迎、立爲人主。」

「まさに今、絶えてしまって後継者がいない。天下は、どこを心の拠り所にすればいいのだろうか。古くから今に至るまで、禍(ワザワイ)はこうして起こるものだ。今、足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)の五世の孫の倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)が丹波国の桑田郡(クワタノコオリ=現在の京都府北桑田郡・亀岡市)にいる。請い願って兵仗(ツワモノ=武器)を設けて、乗輿(ミコシ)を挟んで守って、行って迎えて奉り、人主(キミ=ここでは天皇のこと)としよう」

倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)は袁本杼命(をほどのみこと)ではないのですが、大伴金村は、まず倭彦王を擁立しようとしました。倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)は迎えに来た兵士たちを見て、怯(おび)えて、山中に逃亡して、行方不明になってしまいました。

第一候補に逃げられた大伴金村(おおとものかねむら)は、

「男大迹王、性慈仁孝順、可承天緖。冀慇懃勸進、紹隆帝業。」
「男大迹王(オオドノオオキミ=継体天皇)は性格は慈しみや仁愛があって、孝順(オヤニシタガウ)の気持ちがある。天緒(アマツヒツギ=天皇の位)を受け継ぐべきだ。願わくば、慇懃(ネンゴロ=親しく)に進めて、帝業(アマツヒツギ)を受け継ぎ、国を盛んにしていこう」

この台詞に続く記述の中で「枝孫」(ミアナスエ)という言葉あって、これは「枝から枝が出ること」で、暗に分家で天皇の血を引いている人はたくさんいたよ、という意味になっています。つまり、継体天皇は残された一人というわけではなく、他にも天皇の血を引いた天皇候補は居たという事です。前の動画で説明した倭彦王もその一人でしたから。現在はもっと多いです。

物部麁鹿火大連(モノノベノ・アラカイノ・オオムラジ)・許勢男人大臣(コセノ・オヒトノ・オオオミ)たちも、「枝孫」(ミアナスエ)の中で吟味して選べば、賢者(サカシキミコ)はただ男大迹王(オオドノオオキミ)だけだ」という事になり、男大迹王(オオドノオオキミ)を擁立しようとしました。大臣(おとど)達の来訪を受けた男大迹王(オオドノオオキミ)は何度か躊躇するのですが、結局は皇位を継ぐことを承知し、58歳で、第26代継体天皇(けいたいてんのう)として即位しました。

武烈天皇がお隠れになって、遠い親戚から天皇として即位した、という事です。

もっとも、継体天皇の曽祖母(そうそぼ)に当たる忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が、允恭(いんぎょう)天皇に嫁いで、安康(あんこう)天皇と雄略(ゆうりゃく)天皇を産んでいますので、大和に暮らす皇族と、それ程、縁遠い訳ではなかったようです。

今の皇族は仁徳天皇の弟の血統ですが、仁徳天皇の血が流れていない、という事もありません。なぜなら、継体天皇は即位すると、すぐに仁賢天皇(にんけんてんのう)の皇女(ひめみこ)の手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にお迎えしているためです。
手白香皇女(たしらかのひめみこ)は武烈天皇と同じく、仁徳天皇の玄孫(やしゃご)に当たります。

継体天皇と手白香皇女(たしらかのひめみこ)の間にお産まれになった帝(みかど)は、
第27代の安閑天皇(あんかんてんのう)、第28代の宣化天皇(せんかてんのう)、第29代の欽明天皇(きんめいてんのう)です。欽明天皇こそ、現在の今上(きんじょう)天皇の遠いご先祖様です。

継体天皇は、なぜ手白香皇女(たしらかのひめみこ)と結婚されたのでしょうか?
58歳で即位なされているという事は、結婚されていて子供もいたのでは?

継体天皇には天皇に即位される前に複数の妃がいたものの、即位後には先帝、武烈天皇の姉を皇后として迎えました。何らかの権威付けとして、直系の手白香皇女を皇后にする事により、既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに、一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたのでしょう。

今で言うと、東京か京都におられる旧皇族の男子が天皇に即位された後に、愛子内親王を皇后として迎えたという感じでしょうか。

そう考えると「古事記」には全く書かれていないのに、「日本書紀」で描かれている武烈天皇の暴虐ぶりが書かれている理由が推測できる訳です。

他所(よそ)からやって来た継体天皇の即位を正当化するために、その前の武烈天皇が酷い人物だったと記録しておいた方が都合が良いという事です。中国式ですね。

「古事記」も「日本書紀」も、継体天皇の事績に関しては美化していません。任那(みまな)の四つの国を百済(くだら)に譲渡してしまったり、筑紫君(つくしのきみ)・磐井(いわい)に反乱を起こされたり、余り良い御代であったとも言えませんが、だから尚更、先代の武烈天皇を悪く書かせて、継体天皇を良く見せようとしたのではないか、とも考えられます。

というわけで、安康(あんこう)天皇や雄略(ゆうりゃく)天皇の皇族殺しで危機に瀕した日本の皇統は、何とか神武以来の男系のままで存続することが出来ました。

が、例により、自虐史観の話になりますが、神武以来の万世一系の皇統を否定したい現代の歴史家たちは、「日本の皇統は武烈天皇でいったん途絶え、継体天皇による新王朝が始まった」などと主張しています。

継体天皇は、応神(おうじん)天皇の血を引く男系の皇族であって、何で新王朝なのか、よくわかりません。というか、現在の皇室が神武天皇以来の万世一系であることを否定できそうなネタがあれば、何でも良いのです。

しかも困ったことに、いわゆる保守派と言われる方々にも「継体天皇新王朝説」を信じている人が少なくありません。その代表が百田尚樹(ひゃくた なおき)です。
自著の「日本国紀」に、次のように書いています。
「現在多くの学者が継体天皇の時に皇位簒奪が行なわれたのではないかと考えている。私も、十中八九、そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。継体天皇が即位してから十九年も都を定めなかったのは、その間、前王朝の一族と戦争していたと考えれば、しっくりくる。」

つまり、継体天皇は内戦を経て、神武以来の旧王朝を滅ぼし、新たな王朝を建てた、と主張している訳です。内戦の記録なんて、どこにもありませんが。しかも、当時の大和王朝の歴史は朝鮮半島の史書にも、かなり残されています。当時は、任那や百済と関係が深かった以上、当然と言えば当然なんですが。

王朝が変わるほどの内戦、革命があったならば、間違いなく、支那や朝鮮の歴史書に記録が残されているはずですが、そんなものは全くありません。

記録がないにも関わらず、継体天皇から新王朝である、とか、内戦があった、などと主張が出来るのでしょうか。

結局のところ、「古事記」や「日本書紀」という、我が国の先人が残してくれた歴史書を全否定して、日本の皇統は神武天皇以来の万世一系ではない、という思い込みというか、妄想に真実味を持たせるために懸命に想像力を働かせているのでしょう。

継体天皇は、確かに十九年間、河内国(かわちのくに)や山城国(やましろのくに)に都を定めていましたが、仁徳天皇にしても、難波(なにわ)に都を定めていたので、大和盆地に都がなければいけないと決まっていた訳ではありません。

それにも関わらず、継体天皇が大和以外に都を置いていたことをネタに新王朝説にまで妄想を膨らませる訳です。困ったものです。

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