レコンキスタ



現在の世界にしても、過去の歴史の延長線上にあり、日本も例外ではありません。我が国は四方を海で囲まれているので、比較的他国の影響を受けずに独特の文明を築いて来ました。支那から文化を吸収していましたが、その支那もシルクロードから遊牧騎馬民族、インド、イスラム、ローマ帝国からの影響を受けて育まれ言った文明であり、全くの独自のものではありません。
学校の授業のように「日本史」「世界史」と単純に分けられるものではなく、元寇が起こった理由、豊臣秀吉や江戸幕府がキリスト教を禁止した理由、など、日本の歴史を理解する上でも外せないものに関しては、より理解を深めるべく、その歴史事実に関しての動画を作ることにします。特に、日本の戦国時代以降だと、その背景を知らないと、何が起こっているのかも理解できませんから。

今回は、ヨーロッパからイスラム教徒を追い出し、キリスト教徒がイベリア半島を取り返した戦争の歴史です。この歴史は現代に繋がる、世界の歴史を変えた超重要な出来事です。
なぜか、日本の歴史の教科書では「レコンキスタ」を「国土回復運動」と表記していますが、厳密に言えば「再征服」です。711年から1492年まで、700年以上も続く、長き戦いの歴史です。

最初は、イベリア半島に、北アフリカ、今のリビアやアルジェリアですが、地中海沿いに西へと進んで、チュニジアからジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入って来ました。過去にイスラム教は大帝国を作った歴史があり、その時に征服されたわけです。

例えば、第一次世界大戦で解体されてしまったオスマン帝国は、今のトルコを中心に、東はイラク、西はアルジェリア、北はギリシャやブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、セルビア、などを全て支配下に置いた大帝国でした。
ヨーロッパといえば、キリスト教文明という感じですが、二度、イスラム教に支配された国もあったという事です。二度目が今説明した東ヨーロッパやバルカンの支配です。

そして一度目が、ウマイヤ朝イスラム帝国の拡大です。

もともとイスラム教というのは、開祖のムハンマドが唯一の神アラーの啓示を受けたのが始まりで、西暦613年頃から、ムハンマドはメッカの街でイスラム教の布教を始めました。ムハンマドが率いるイスラムの共同体は次第に勢力範囲を広げていきます。ムハンマドの時代に、早くもアラビア半島全域を支配下に置いて、拡大を続け、ウマイヤ朝イスラム帝国の最盛期には、北アフリカを横断して、チュニジアからジブラルタル海峡を渡って、711年に、西ゴート王国からイベリア半島を奪取しました。ゲルマン系ゴート族の王国でした。

ちなみにゴート族とは、今のウクライナ辺りに住んでいましたが、ドナウ川を渡って西へ西へと移り住み、西ローマ帝国滅亡の引き金を引いたことでも有名です。

いわゆるゲルマン民族の大移動です。375年にゲルマン系のゴート族がドナウ川を渡ったのをきっかけに、ゲルマン系民族がヨーロッパ全域で大移動を繰り返しました。東ゴート人はイタリア半島に、フランク人は北西フランスに、アングル人とサクソン人がイングランドに移動しました。もちろん、家族を連れて、軍隊として、自分たちが生きるための土地を求めての移動だったため、ヨーロッパ中が大混乱になりました。ゲルマン系のフランク人がフランスに入ってフランス王国を建国しますが、フランスの地を越えて、更にピレネー山脈を越えて、イベリア半島に入ったゲルマン系民族が西ゴート人です。もちろん彼らが建国したのが西ゴート王国です。

別の動画でも、何度も説明していますが、ヨーロッパって意外に狭いですから。北海道の稚内市をドイツの首都ベルリンの位置に合わせると、スペインの首都マドリードは長崎市辺りになります。沖縄の那覇市だと大西洋に突っ込んでしまいます。そのくらい、日本は細長い国土なのです。スペインとポルトガルのあるイベリア半島は、長さで言うと、日本の本州の半分くらいです。イベリア半島は四角い形をしているので、面積はそれなりにありますが。

ゲルマン系の西ゴート王国になだれ込んできたのが、ウマイヤ朝イスラム帝国の軍隊です。
西ゴート王国は苦戦を続けます。西ゴート王のロデリック率いる西ゴート軍は、グアダレーテ河畔の戦いで戦死してしまい、王国は滅亡。王国滅亡後も西ゴート人の抵抗が続きますが、718年には、イベリア半島の全域を征服しました。ウマイヤ朝イスラム帝国に編入されたイベリア半島の地域は、アル・アンダルス、と呼ばれています。元々、イべリア半島南部については、アンダルシア、と呼ばれており、そのアラビア風というわけです。アンダルシアの語源は一時的にイベリア半島南部を支配したゲルマン民族のヴァンダル人から来ています。

西ゴート王国が亡びた際に、西ゴート王国の貴族であったペラーヨは、イベリア半島北部の山岳地帯に逃げ込み、狭い地域にアストゥリアス王国を建国しました。ここでようやくレコンキスタが始まります。西ゴート王国の末裔がイベリア半島を取り戻していく訳です。

ウマイヤ朝イスラム帝国は、西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を勢力下においた後に、東に向かい、ピレネー山脈を越えて、フランク王国になだれ込みました。

ボルドーまでイスラム軍は進み、フランク王国のカール・マルテルはそれを向かいうちます。ツール・ポワティエの戦いと呼ばれています。それでフランク王国は何とかイスラム軍を撃退することに成功します。もし、ここでフランク王国が負けていたら、欧州の歴史は全く違うものになっており、キリスト教文化が花開くことはなかったでしょう。

というわけで、フランク王国の征服を果たせなかったウマイヤ朝は、イベリア半島に腰を落ち着けて、アル・アンダルスの発展に注力するようになりました。
当時はゲルマン系のヨーロッパよりも、イスラムの方が圧倒的に高度な文化を誇っていました。古代ギリシャ、古代ローマの文明は、ゲルマン系のヨーロッパ人達には受け継がれず、
コンスタンチノープル(今のイスタンブール)を経由して、アラブを中心としたイスラム世界に伝わりました。そして大発展したイスラム文明が北アフリカを通ってジブラルタルを越えてイベリア半島に伝わった訳です。

ウマイヤ朝のアラブ人やムーア人が腰を落ち着けたイベリア半島のコルドバ、グラナダにイスラム文明の粋を結集させた宮殿が造られ、元々、西ゴート王国の首都があったトレドに、当時としては、世界最大級の図書館が建設されました。コルトバにある850本の円柱が支える宮殿メスキータ、グラナダのアルハンブラ宮殿、など、イスラム教徒の栄華の象徴です。

イスラムの灌漑技術、新作物の導入によって農業が大発展し、コルトバの織物、紙の産業、製陶業、ガラス工芸、貴金属の工芸、など、西ゴート王国時代とは比較にならない程、大発展しました。

もちろん、アフリカやアラブのイスラム世界との交易も発展しました。イベリア半島からは織物、手工芸製品が輸出され、アル・アンダルスの経済は大発展しました。具体的にいうと、みんな豊かになって行った、という事です。

アストゥリアス王国では、牧羊業が中心で、農業の生産性も著しく低かったです。生産性というのは経済力とイコールなので、そこに住む人々は貧しくて、典型的な、中世ヨーロッパの貧困国でした。

次第に、キリスト教徒が領土を取り返していきますが、アル・アンダルスとアストゥリアス王国とでは、経済力に圧倒的な差がありました。

アストゥリアス王国軍、ピレネー山脈北部のバスク人のナバラ王国軍がイスラム帝国に攻め入りますが、余裕しゃくしゃくのイスラム帝国軍は、経済力でも圧倒的な差があったので、簡単に撃退します。攻め込んでは撃退され、攻め込んでは撃退され、を何度も繰りかえします。ひたすら戦争を繰り返す時代が、レコンキスタ、なのです。

アストゥリアス王国からカスティーリャ王国、ポルトガル王国が生まれました。更にナバラ王国につながるアラゴン王国とカスティーリャ王国が合併しましてスペイン王国が誕生しました。これらの国々はキリスト教の国なので、キリスト教小王国と呼ばれています。

1085年にカスティーリャ王国のアルフォンソ6世がついにトレドを奪還します。イスラム帝国も紆余曲折があり、一枚岩で戦っていたわけではありませんでした。ウマイヤ朝イスラム帝国が750年に滅んでしまいます。王朝をアッバース家に乗っ取られてしまい、アッバース朝イスラム帝国に変わりました。アッバース朝はウマイヤ朝の王族をひたすら殺しつづけましたが、たった一人残ったアブド・アッラフマーン1世がアフリカからイベリア半島に渡り、ウマイヤ朝を再興しました。後(こう)ウマイヤ朝ですね。その後、しばらくは繁栄しましたが、後ウマイヤ朝は後継者争いなどで弱体化し、1031年に滅亡しました。後ウマイヤ朝が滅亡してもイベリア半島の各地で、タイファと呼ばれるイスラム諸侯が独立し、分裂割拠してイスラム支配が続きました。

その後、イスラム諸侯であるタイファ達も内部分裂などを繰り返しまして、アフリカ大陸からムラービト朝イスラム国とかムワッヒド朝イスラム国などの支援を受けて、イベリア半島を舞台に、キリスト教勢力が押し込みつつもイスラム勢力を完全に半島から駆逐出来ないという状況が続きました。

イスラム教徒とキリスト教徒による戦いなので、異教徒同士、凄惨な戦いでした。

特にキリスト教徒は、強大な経済力を誇るアル・アンダルスに攻め入らなければならなかったので。

ただ、キリスト教側には有利な点がありました。

それは、貧しかった事。アル・アンダルスのイスラム教徒は非常に豊かだった訳です。
それがキリスト教徒側に有利に働きました。元々は戦士階級でイベリア半島に住みついたアラブ人やベルベル人達が、アル・アンダルスの繁栄の中ですっかり都市化して、戦う魂を失っていった訳です。今の世界でもそうで、都市に住む人よりも農地などのように、自分の土地を持っている人達の方が、真剣に外国からの侵略に立ち向かおうとします。理由は自分の土地を守るためです。レコンキスタの時代、キリスト教小王国は、イスラム勢力との戦いに勝ったら、獲得した土地を、騎士達や兵士達に、惜しげもなく、分け与えました。何しろ、元々、自分の土地ではありませんでしたから。
つまり、戦いに勝てば、豊かな土地、を手に入れることが出来て、かつ、イベリア半島の北部にはなかった文明の品々を略奪することが出来た訳です。
それでキリスト教小王国の兵士たちは死に物狂いで突撃しました。

更に、イベリア半島のキリスト教小王国のバックには、ローマのカトリック教会がついていました。1198年には、ローマ教皇インノケンティウス三世が、「イベリア半島でイスラム勢力に立ち向かえ!」とヨーロッパ中に呼びかけました。

というわけで、豊かな文明や土地を求めて、更にはキリスト教世界からのバックアップを受けて、キリスト教小王国は南へ南へと進んでいき、1251年、ついにカスティーリャ王国がジブラルタル海峡に到達しました。その後、イスラム勢力は、グラナダを中心にナスル朝グラナダ王国として残っていましたが、ほとんどカスティーリャ王国の属国のような立場でしたが。しかし、最後まで残ったイスラム勢力の国がナスル朝グラナダ王国だったので、イベリア半島に住んでいたイスラム教徒は、皆そこに移り住むようになりました。そのため、その人たちの貢献もあり、経済や文化面では、グラナダ王国はその前よりも発展しました。

1474年にカスティーリャでイサベル1世が女王として即位します。さらに1479年にアラゴンでイサベルの夫であるフェルナンド2世が即位します。結果、カスティーリャとアラゴンが合併して、スペイン王国が誕生します。イサベル女王とフェルナンド王を合わせて「カトリック両王」と呼ばれています。ローマ教皇のアレクサンデル6世が名付けたのですが、文字通り、カトリックの王である、と認定されました。つまり、キリスト教の神に選ばれた国王という事です。日本人にはピンときませんが、ヨーロッパではその権威は絶大でした。1492年、スペインはついにグラナダのアルハンブラ宮殿を陥落させ、ナスル朝が滅亡。774年かかって、ようやくイベリア半島からイスラム勢力を排斥することに成功しました。日本で言うと、鎌倉時代から現在まで戦い続けてたわけです。

ちなみにトレドの図書館には膨大な量のイスラムの文献が残されており、ラテン語に翻訳され、それからイタリアでルネッサンスが始まる事となりました。

このレコンキスタこそ、現代に続くグローバリズムの始まりとなりました。ここから日本も世界史の渦に巻き込まれていきます。

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