大・古墳文明  その3



また土を運べは良いというものではなく、あの巨大な墳墓を造成し、周囲に堀を掘っていった訳ですから。ちなみに、日本の大林組が仁徳天皇陵を古代工法により建設する際の人工(にんく)、作業量、費用、などを試算しましたが、それによると、工期15年8ヶ月、作業員数は延べ68万7千人、総工費が796億円とのこと。ということは、それだけの労働者たちが仁徳天皇陵の建設現場で働いても、充分に生きていけるだけの食糧の余剰が必要だったわけです。という事は、古墳時代の農業生産性も、古代エジプトに匹敵するほどに高かったという訳です。

日本の場合は、小麦ではなく、米が農業の中心でした。特に水田稲作の生産性は古代から相当に高かった訳です。なにしろ、稲自体の収穫率が高く、水田方式は毎月水を入れ替えるため、土壌の品質が悪化しません。

仁徳天皇の時代になると、ピラミッドに匹敵するような巨大建築物を造れるほどに、米がたくさん生産出来て、人口も増えて、土木技術も上がっていた訳です。以前の動画でも説明した通り、仁徳天皇の御代は「大土木国家日本」の幕開けでもありました。神武天皇が東征の際に着いた河内潟は、縄文海進(じょうもんかいしん)以降、河内湖となりますが、仁徳天皇の時代、河内湖を干拓しようとしたのですが、淀川が溢れると、すぐに洪水になってしまうので、仁徳天皇は淀川に堤防を建設し、水が河内湖に来ないよう、大土木工事を行いました。仁徳天皇は淀川堤防の流路安定のため、全長20キロメートル程の茨田堤(まむたのつつみ)を築かせました。結果、淀川からの水の流入が止まり、河内湖の水位が下がり、陸地化し、やがて河内平野となりました。ということは、仁徳天皇がいなかったら、大阪の発展が相当に遅れたのは間違いありません。

というわけで、仁徳天皇の時代、日本人は高い生産性と高度な土木技術を、既に保有していました。支那から教わった訳でもないのに、です。

結果、仁徳天皇陵以外にも、無数の古墳が造られた訳です。

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