倭の五王 第五回



日本側の窓口が、邪馬台国から大和王朝に交代し、倭の五王の「讃」以降、代々の天皇は宝物を貢物として送り、朝鮮半島における権益を認めることを求めるのですが、奴隷を贈ることはありませんでした。「宋書」では、地方の産物を捧げた、と書かれています。

朝鮮半島の権益とは、任那(みまな)はもちろん、百済(くだら)や新羅(しらぎ)の支配権も認めてほしい、という話です。いわゆる冊封(さくほう)ですが、讃(さん)は安東将軍(あんとんしょうぐん)、倭国王(わこくおう)の位(くらい)しか、認めてもらえませんでした。

その後も倭の五王は、新羅と百済の支配権を求め続けますが、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)も安東将軍(あんとんしょうぐん)、倭国王(わこくおう)のままで、武(ぶ)に至って、新羅、任那、伽耶(かや)の支配権を認めさせます。「宋書」によると、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王とした」とあります。百済の支配権は認めてもらえなかったのですが。

当時の大和王朝は、日本国内でも盤石だったとは言えなかったので、支那の皇帝から冊封下で官爵を授かることは大きな権威だったのでしょう。

倭王武が官爵を得たのが西暦478年ですが、翌479年に「宋」(そう)は滅亡してしまいます。雄略天皇は「宋」を滅ぼした「斉」(せい)、「斉」を滅ぼした「梁」(りょう)からも官爵を授かっていますが、この時期には、倭国は支那への朝貢(ちょうこう)を止めていました。支那の新たな王朝が勝手に位(くらい)を寄こした訳です。「宋」の最後の皇帝「順帝」(じゅんてい)も、「斉」の最後の皇帝「和帝」(わてい)も、ともに禅譲後、殺害されています。

雄略天皇の名前は大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)ですが、5世紀の遺跡から、天皇の名前が刻まれた鉄剣が出土しています。雄略天皇の頃から、「古事記」や「日本書紀」の年代が確定出来るようになって来ました。

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