倭の五王 第四回



とはいえ、邪馬台国と大和王朝は全く違います。歴史も位置も文化も全く異なっております。入れ墨などが良い例でしょう。共通点は、同じ日本人である事くらいでしょう。
「魏志倭人伝」によると、「男子無大小 皆黥面文身 (男子は大小無く、皆、黥面文身(げいめんぶんしん)す。)現代語訳「男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。」とあります。「後漢書」の「倭伝」にも同じような記述があります。

ところが大和王朝の人達には入れ墨の習慣がありません。黥面絵画(げいめんかいが)、土偶(どぐう)の分布から見ても、明らかな事です。興味深い事に、奈良周辺はもちろん、大和王朝の出身地である日向国(ひむかのくに)から、黥面絵画や黥面土偶が全く出土していません。「古事記」に入れ墨の記述が一か所だけあります。神武天皇の皇后であらせられる比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)を大久米命(おおくめ の みこと)が迎えに行った際に、武人だった大久米命が目尻に入れ墨をしていたのを見て、比売多多良伊須気余理比売が、何でそんなに目が大きいのか、を尋ねています。要するに、奈良も宮崎も、顔面に入れ墨をする習慣がなかった証拠でもあります。

また、邪馬台国は魏に朝貢(ちょうこう)する際に、魏に貢物として生口(奴隷)を送っていました。

「魏志倭人伝」の記述に「其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎將印綬」(「其の四年。倭王はまた使の大夫伊聲耆、掖邪拘等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木拊短弓、矢を上献す。掖邪狗等は率善中郎将と印綬を壱拝す。」)現代語訳:「その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、奴隷や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。」)

「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」(壱与(いよ)は倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わし、政等の還るを送る。因って(よって)、臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢ぐ。)現代語訳:「壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。」

とあります。

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