任那封印 



「現在を支配する者は過去を支配する。」
日本の歴史学者や考古学者そのものですが、今の日本が怖いのは、神武天皇を始めとする歴史上の人物はもちろん、関係が深かった国家までもが無かった事にされている訳です。

「任那」(みまな)もそのうちの一つです。現在の歴史の教科書から抹消されています。
「神武天皇」「仁徳天皇陵」「神功皇后」「三韓征伐」「聖徳太子」などと同じく、昭和50年年代後半までは、中高の歴史の教科書にも普通に載っていたのですが。

以前の動画でも解説しましたが、加羅(から)の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)王子が来日して、御間城天皇(ミマキスメラミコト)こと、崇神天皇(すじんてんのう)の名前を取って、加羅(から)を任那(みまな)と名付けるようになりました。

当時、朝鮮半島南部には加羅のみならず、倭人の国が数多く存在していました。『三国志』の「魏書弁辰伝」によると、弁辰とは弁韓の事で、加羅があった地域の総称です。弁韓は12国に分かれていました。魏書では「弁韓と辰韓はあわせて24国ある」と書かれています。
その中で、最も大きな国が加羅でした。任那は5世紀には加羅周辺の国々、村々を統括する大和王朝の機関の名称だったようです。つまり統治機構ですね。

任那に関する、朝鮮や支那の主な記述について紹介します。

まず、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する「広開土王碑」(こうかいどおうひ)です。
高句麗の第19代の王、好太王(こうたいおう)の死の翌年に建造されているため、最も当時の状況を色濃く反映しているものと思われます。ここには、

「永楽(えいらく)十年、庚子(こうし)の年(とし)、歩騎五万を派遣して新羅を救わせた。男居城から新羅城に至るまで倭軍が充満している中を官兵で攻撃し、倭の賊軍を退けた。倭軍の背後を急追し、任那加羅の從拔城へ至った。」

と記載されています。

また、「宋書倭国伝」では「詔(みことのり)して武(ぶ)を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す」とあります。

雄略天皇が冊封を受けた記述です。

更に時代が下って、660年頃に書かれた『翰苑』(かんえん)(660年成立)新羅条(しらぎじょう)に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されています。

というわけで、当時の朝鮮半島では、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)、任那(みまな)の四つの勢力が激しく領土を争っていたことがわかります。特に、高句麗、百済は300年も戦争を継続することとなります。我が国にとっても、対岸の火事というわけではありませんでした。朝鮮半島南部の倭人の国の庇護者でもあり、半島の鉄資源を必要としていたからです。支那の史書にも、朝鮮半島の鉄資源の話が出て来ます。「魏書弁辰伝」には、「「国には鉄が出て、韓、濊(わい)、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」という記述もあります。大和朝廷は朝鮮半島に鉄資源をはじめ、様々な権益を持っていました。それを統括する出先機関が任那というわけです。でも国の名前は加羅(から)がそのまま使われていました。なので、広開土王碑(こうかいどおうひ)や支那の史書では、「任那、加羅、」と書かれている訳です。もっとも、後に任那は朝鮮半島南部の倭人の国の総称として使われるようになっていきましたが。「日本書紀」では、任那人、という言葉が登場するようにもなっていきます。

応神天皇(おうじんてんのう)の巻では、「即位7年9月 高麗(こま)・百済(くだら)・任那(みまな)・新羅(しらぎ)に韓人池(からひとのいけ)を作らせる。」という記述もあります。
更に、雄略天皇の巻では、「即位8年2月 身狭村主青(むさ すぐり の あお)と檜隈民使博德(ひのくま の たみのつかい はかとこ)を呉(ご)に派遣。新羅と高麗(こうらい)が接近するが、高麗が新羅を狙っていると分かって、新羅国内の高麗人を殺す。怒った高麗に攻められて日本に助けを求める。任那は膳臣斑鳩(かしわで の いかるが)・吉備臣小梨(きび の おなし)・難波吉士赤目子を新羅救援に派遣。高麗を伏兵で倒す。」と記述があります。

雄略天皇は倭の五王の「武」であることが確定していますが、この時代になると、任那は王国と同じ扱いになっています。

ちなみに、1980年代、朝鮮半島南部の全羅北道(チョルラプクト)や全羅南道(チョルラナムド)、旧任那地域で14基の前方後円墳が発見されました。朝鮮半島から、日本独自の物と言われていた前方後円墳が出土したことによって、例によって、韓国の学者たちは「前方後円墳の紀元は韓国だ!」と騒ぎ始めました。ところが、朝鮮半島の前方後円墳は5世紀に造られたものであることがわかりました。日本のものは3世紀末の箸墓古墳(はしはかこふん)が最古のものです。任那の国では、貴人を前方後円墳を造って埋葬した。なぜなら倭人の国だから、というだけの事です。

「魏志弁辰伝」には、「弁辰(べんしん)は辰韓(しんかん)と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。」とあります。弁辰とは加羅(から)などの弁韓諸国、辰韓とは新羅(しらぎ)です。

当時の朝鮮半島南部は倭人や新羅人、濊人(わいじん)、百済人、などが入り乱れて暮らしていたようです。そこを統括する大和王朝の機関が任那(みまな)で、やがては任那が国を表すようになっていき、任那人、任那王、という用語が使われるようになっていきました。

任那を理解すると、当時の朝鮮半島南部の状況が目に浮かぶようになりますが、戦後の歴史学者たちが、任那という用語を封印してしまったので、学校でも教えないし、聞いたことがない日本人も少なくない事だろうと思われます。
作家の黒岩重吾は「1970年代、今から20年くらい前は、任那という言葉を口にすることさえ憚られる雰囲気でした。」と語っていますが、「えっ?」と思います。昭和50年代後半までは、普通に、山川出版社の教科書に載っていましたから。試験にも出ましたし。
しかしながら、今ではなかった事にされてしまっています。神武天皇、神功皇后、仁徳天皇陵、聖徳太子、などと同じ扱いですよね。思想の統制をやっているのでしょう。

任那が神功皇后同様に封印されてしまったのはなぜでしょうか?

簡単ですよね。朝鮮半島絡みだからです。大東亜戦争に敗北した日本では、古代史における朝鮮半島への関りを語ることが、朝鮮半島領有を正当化する、などという理屈で、日本人自身がタブー化してしまいました。任那は「古事記」「日本書紀」はもちろんの事、広開土王碑や魏志、宋書、等にも登場しますので、実際に存在していました。とはいえ、任那の実在を主張すると、大和王朝が朝鮮半島南部を支配していたことを認めることになり、大日本帝国の韓国併合を正当化することになる、というわけです。

大東亜戦争敗北後、GHQによる検閲、まともな歴史学者の公職追放、それに加えて、朝鮮半島の歴史関連では在日コリアンの歴史学者たちが圧力をかけ、日本の古代史は大きく歪められてしまったと言われております。在日コリアンの歴史学者で最も有名なのが、和光大学名誉教授であった李 進熙(り じんひ)でしょう。1972年、李 進熙は突然「広開土王碑の碑文は、日本陸軍により改ざんされたものだ。」と叫び出しました。石碑というものは後世の改ざんを防ぐためにあるのですが。1972年当時は、中華人民共和国が文化大革命の真っ最中で、広開土王碑がある中国吉林省に入ることが出来なかった、つまり、日本の歴史学者たちが現物を確認することが出来なかったからです。李 進熙はそれを良いことに、旧日本軍参謀本部の酒匂 景信(さこう かげあき)が入手した「広開土王碑」の拓本(碑文の写し)を陸軍が朝鮮半島進出の正当化目的で都合が良いように改変した、と自らの妄想を大々的に発表しました。

広開土王碑は高句麗の記念碑なので、内容は、当然のことながら、自分たちに都合の良い風に書きます。世界中のどこの国でも、それが当たり前。唯一違うのが日本で、世界中で独特の文化を持ち、それが延々と続いている。現在の今上(きんじょう)天皇は126代ですが、初代神武天皇のY染色体を持っています。万世一系ですね。初代天皇の即位は紀元前50年以前。放射性炭素年代測定の技術の進化もあって、それが確定しました。北極と南極で氷が大量に出来たため、海抜が下降するなんてことは、「記紀」が書かれた奈良時代の人達は想像もしていなかったでしょう。そういう話が伝わっていたから、素直に書いた。科学が進むと、相当に正しかったことが色々と証明され出した。それだけの事です。

なので、本当に改ざんしたのなら、もっと大和王朝側に都合の良いように書き換えるはずです。ところが、日本の歴史学者は、実物の確認が中華人民共和国に入国できず、不可能となっていたため、李 進熙(り じんひ)に反論できず、広開土王碑の研究は40年も停滞することになりました。2006年に、中国社会科学院が、旧日本軍参謀本部の酒匂 景信(さこう かげあき)が入手した写しよりも古い、1881年作成の写しとの比較で、意図的な書き換えの事実がない事を証明しました。李 進熙という、たった一人の妄想から、日本の古代史が歪められてたわけです。ジャパン・ディスカウントが好きな人達なので、「いい仕事をしました。」というわけです。2012年に死去するまで、李 進熙は何の責任も取りませんでした。
騎馬民族征服王朝説を唱えた江上波夫も同じですが。しかもウソの責任を取るどころか、文化勲章までもらっているのですから。

神武天皇、邪馬台国、神功皇后、三韓征伐、任那、仁徳天皇陵、聖徳太子、など、多くの国民が事実を知り、草の根から変えていかないと、この流れは変わりません。それで政治家や文部省を動かす。それしか方法がありません。このチャンネルの主旨でもあります。

話は戻りますが、任那は、その後、百済とともに朝鮮半島の覇権争いに巻き込まれます。
当時の朝鮮半島の騒乱において、見事な動きを見せたのが新羅です。新羅は百済と任那と手を結び、北方の高句麗の軍を撃退。今度は高句麗と結び、百済と任那を攻撃。百済は高句麗に滅ぼされますが、その後は復興し、任那や大和王朝の支援で、半島南西部で勢力を保ち続けます。その後も新羅の攻勢は続き、任那、百済、大和王朝間で、不協和音が目立ち始めるようになりました。そのため、三勢力が一致団結して新羅に立ち向かうことが出来なくなっていきます。

大和王朝と任那が同じ日本人の国だったとしても、何百年も離れて暮らしているので、お互いに事情が違ってくるのも当然の事でしょう。大和王朝は任那を守るべく、軍隊を送り込むのですが、次第に新羅の圧力に抗しきれなくなっていき、530年代には、南加羅(から)などの重要拠点を新羅に落とされてしまいました。大和王朝にすれば、海の向こう側の話で、今のように航海技術が発達しているわけでもないので、支援をするといっても、いろいろと限界もあったものと思われます。

「西暦562年、ついに任那は滅んだ」と「日本書紀」に記載されています。

「春正月、新羅任那官家(みやけ)を攻撃し滅ぼした。一本に云はく、二十一年に任那滅ぶといふ。」

官家(みやけ)とは直轄地という意味です。仲哀天皇が淡路に菅家を置いた、というのと同じです。任那は朝鮮半島における大和王朝の直轄地でした。
朝鮮半島の直轄地を失った大和王朝は、その後、推古天皇(すいこてんのう)の御代の新羅討伐など、何度も任那復活を試みましたが、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の御代を最後に、「日本書紀」からも姿を消します。

前の動画でも話しているように、日本の歴史学会が任那を歴史から消すことに精を出しているので、韓国も、日本の古代史歪曲、と騒ぐようになりました。倭曲も何も、支那の史書にも、「三国史記」のような朝鮮の歴史書にも載っているのですが、そこはどうなんでしょうか。統治機関を消してしまうのは、どう考えても無理だと思いますが。

任那が完全に封印されたのは、2000年以降なのではないでしょうか。神功皇后はもちろんの事ですが。今の中国の若者が「天安門事件」を知らないのと一緒ですよね。共産党に都合の悪い事実は誰も教えませんから。なので、現在の日本にしても、中国共産党顔負けの情報統制が行われている訳です。

別に、「戦前の皇国史観が正しかった」という気もありませんが、現在の自虐史観は恐ろしく危険です。我が国の安全保障が脅かされ、色々な国益を失う結果となるからです。良い例が日本と隣国との経済発展の差です。
それよりも大きな問題は、日本の建国史が歪められてしまう事です。
建国史とは国家の始まりであり、人間でいえば「生まれと育ち」と同じことです。生まれ育ちは我々の人格形成に大きな影響を与えます。その最も大切な記憶、我々の背骨、中枢でもある「建国史」を奪われた国家が、今後、そのまま、存続出来るでしょうか?

自虐史観によって奪われた「大切な記憶」を取り戻さなければなりません。ウソを言わず、さまざまな歴史書に書かれている事だけを語れば良いだけですから。

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