倭の五王 第三回



大和王朝が本格的に、支那、朝鮮と関わり出すのは、神功皇后の新羅遠征以降になりますが、垂仁天皇の御代に、既に外交的窓口が作られていたという事です。

垂仁天皇の次の景行天皇の御代に、「熊襲(くまそ)が背いて、貢物を奉らなかった」という理由で、天皇は筑紫に遠征しています。周防(すおう)から豊後(ぶんご)に入り、日向(ひむか)の国に向かいました。景行天皇は筑紫遠征のあと大和に戻り、改めて、倭建命(やまとたけるのみこと)を熊襲(くまそ)討伐のために派遣します。景行天皇は日向(ひむか)の国で、例によって、お宮を建てています。日向高屋宮(ひむかのたかやのみや)というものですが、現存していませんが、伝承地はいくつもあります。

近くには、神武天皇らが東征に出発した後、居残った方々の繁栄の証である西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)もあります。前方後円墳が31基、円墳が279基、方墳1基、など、多くの古墳が集まっている、全国的にも非常に珍しい古墳群です。

卑弥呼の死後、邪馬台国が衰退して、九州北部は大和王朝の勢力圏に入りました。当然、朝鮮半島南部の加羅(から)も大和王朝に従属し、任那(みまな)という大和王朝の出先機関も作られました。加羅(から)の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)王子が来日して帰国を願い出た際に、垂仁天皇が、「お前が道に迷わずに早く日本に来ていたら、先代の天皇に会って仕えていただろう。だから、お前の本国の名前を改めて、御間城天皇(ミマキスメラミコト=崇神天皇)の名前を取って、お前の国の名前とせよ」と言いました。
それでその国を名付けて「彌摩那国(ミマナノクニ)」というのは、こういった由縁からです。

加羅(から)は国の名前ではなくて、国家群の総称で、任那(みまな)も大和王朝の出先機関、役所の呼び名となりました。加羅の王子の来日、任那の設立、神功皇后の新羅(しらぎ)遠征、その後の、主に高句麗(こうくり)を相手取った戦争、大和王朝は次第に朝鮮半島に深く関わっていきます。

ここで、混乱を招く問題が一つあります。支那や朝鮮の人にとっては、日本を代表するところが、大和王朝であろうが、邪馬台国であろうが、どちらでも構わない、という事です。
なので、邪馬台国から大和王朝へと、窓口が変わっても、支那や朝鮮の人は「倭国」と呼んでいました。住んでる人達は「倭人」。

結果的に、「同じ倭国と呼ばれているじゃないか」と、いう事で、日本の歴史学者や考古学者は邪馬台国と大和王朝を混同するようになってしまったわけです。それが、「邪馬台国畿内説」などが登場してきた経緯でもあります。

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