倭の五王 第二回



ちなみに、後漢の史書である「後漢書」では、「倭の西北の境界にあたる狗邪韓国(くやかんこく)」とあるので、当時の女王の国の西北の国境は、玄界灘ではなく、朝鮮半島にあった、という事です。狗邪韓国、加羅(から)、加耶(かや)、は全て同じ地域で、朝鮮半島南部の倭人(わじん)の国の総称です。侵略したというよりも、縄文時代には朝鮮半島には人が住んでいなかったので、北海道から沖縄まで行き来していた縄文人が朝鮮半島に住みつき、そこで生活をしていた、という事でしょう。

「魏志倭人伝」に登場している辰韓(しんかん)、後の新羅(しらぎ)が最終的には、唐(とう)の傘下に入って、朝鮮半島を統一するのですが、新羅の第4代の王、脱解尼師今(だっかい にしきん)は、日本列島出身です。倭国(邪馬台国)の北東一千里のところにある多婆那国(たばなこく)の出身である、と、朝鮮半島の正史である「三国史記」に書かれていますから。但馬国(たじまこく)か、丹波国(たんばこく)の事でしょうか?
「三国史記」で、邪馬台国とそれ以外の倭人の国が、それぞれ区別されているのも興味深い話です。当時の支那の人達も、朝鮮半島の人達も、邪馬台国の東に、別の倭人の国があって、たくさんの人達が住んでいることを知っていた、という事です。とはいうものの、窓口の邪馬台国以外はよくわからないので、まとめて「倭種」(わしゅ)と呼んでいたのでしょう。

その邪馬台国ではない倭人の中で、勢力を拡大していったのが、大和王朝、という訳です。

その邪馬台国で、女王卑弥呼が死んだのが西暦247年頃で、その後、九州北部は戦乱となりますが、卑弥呼の生前も、南の狗奴国(くぬこく)、つまりは熊襲国(くまそこく)、と戦争をしていました。その後、卑弥呼が亡くなり、墓が造られます。

「魏志倭人伝」には次のように記載されています。「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。)」現代語訳;卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。

つまりは、直系100歩程度、50メートルくらいの円形の墓、ということになります。が、日本の歴史学者には、またも、「魏の一歩は1メートル超だった。なので144メートルの円墳だった。」などと、何の根拠もない事を主張している人が少なくありません。何にせよ、この描写から前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)であった、と読み解く人はいないでしょう。ところが、日本の考古学界はおかしな世界で、「奈良県の纒向遺跡(まきむくいせき)の箸墓古墳(はしはかこふん)が卑弥呼の墓だ」と主張しています。しかも見事な前方後円墳です。長さが280メートルもあります。しかも、箸墓古墳は炭素14年代測定法により、築造年代が西暦280年から300年と測定されています。卑弥呼の死後半世紀のものです。

「日本書紀」には、被葬者は、第7代孝霊天皇皇女(こうれいてんのうのひめみこ)の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)と書かれています。箸(はし)が原因で亡くなったために箸墓古墳と呼ばれているわけです。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は孝霊天皇(こうれいてんのう)の皇女(ひめみこ)ですが、亡くなった時には、既に崇神天皇(すじんてんのう)の御代でした。ということは、崇神天皇の御代は三世紀後半から四世紀前半だということがわかります。崇神天皇の晩年に、朝鮮半島の加羅(から)の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が現在の福井県の敦賀の地に着き、大和の都を訪れます。都怒我阿羅斯等が大和に着いた時、崇神天皇は既に崩御されており、息子の垂仁天皇が即位なされておりました。そのため、王子は垂仁天皇に拝謁しております。加羅(から)の後ろ盾になってくれるよう、頼みに来たものと思われます。つまり、邪馬台国は、崇神天皇の頃には、既に衰退してしまっていた、という事です。故に新たな宗主国を求めてやって来た訳です。

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