大東亜戦争 その6



なぜそんなに差が開いたのかというと、アメリかはデフレだったから供給能力が余りまくっていたという事です。働いていない労働者も稼働していない工場もたくさんあったのに対して、日本はデフレを脱出していて、既にインフレだったから、です。供給能力を使い切っていました。1941年のGNP(国民総生産)に占める軍事生産の割合は日本側は23.1%、アメリカ側は11.2%でした。1942年の軍事生産の割合は日本側は30.5%、アメリカ側は33.5%まで伸びました。アメリカはデフレだったので、生産能力が余りまくっていたからですね。フォードやクライスラーも戦闘機を造りまくったわけです。デフレ・ギャップを埋める形で生産を増やしていったのがアメリカだけど、日本には出来なかった。こういう決定的な差が1943年以降ついていきました。最終的には女子挺身隊と呼ばれて、女子まで軍事工場で働くようになります。それ程労働力が足りませんでした。アメリカでは看護婦として戦地に赴く人はいましたが、工場で働く人はいませんでした。労働力に余裕があったからです。

1945年に日米の戦争が終わった時点では、アメリカは見事に完全雇用が実現していました。

ミッドウェー海戦以降、戦況が逆転してしまいました。日本は本土を空爆されました。沖縄が占領されました。広島、長崎に原爆が落ちました。中立条約を破棄して、ソ連が参戦してきて、満州、樺太、千島列島、北方領土が襲われました。

日本の敗戦後、戦後処理が始まりますが、現在の日本人が誰もが持っている主権がない時代が、それから、8年ほど始まります。この国の方向性を決める権利を、日本国民は、サンフランシスコ講和条約で、日本が独立するまでの間、失ったわけです。1618年から1648年にドイツで30年戦争があった際に、「主権という概念が生まれ、その国の運命を決めても良いのはその国に住む国民だけである。」という概念が生まれました。その後の1789年のフランス革命でその権利は確固たるものになりました。第一次世界大戦以降の戦争は国民が総動員されないと、とても勝てないようになり、結果として、国民がその国の運命に責任を持つように義務付けられたわけです。
国民主権国家ですね。勘違いしてる人も少なくないようですが、戦前は今以上に民主的な時代でした。何しろ、選挙で、しょっちゅう政権交代が起こっていましたから。

一応、占領軍が主権を持っていた時代にも選挙はありましたが。「日本国憲法」は日本人に主権がない時代に定められた憲法なわけです。「改憲がどうだ」などという気もありませんが、日本国民に主権がない時代に定められたものであるという事です。要するに、内容に関して、誰も責任を取らない憲法な訳です。

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