大東亜戦争 その5



なので、1941年11月末に、日本の連合艦隊が択捉島(えとろふとう)の単冠湾(ひとかっぷわん)を出港した、という情報を耳にしたルーズベルトは、英国首相のチャーチルに電話して小躍りして喜んだそうですから。

アメリカはデフレ脱却のためにヨーロッパで戦争がしたかった。でもドイツを挑発しても全く乗って来ない。ではドイツと軍事同盟を結んでいる日本と戦争して、ヨーロッパ戦線にも参加しよう、という思惑があったとも言われております。実際、そのようになりました。

当時の日本の目的は、国際社会で白人以外の国はほぼ全てが欧米の植民地で、支那の蒋介石政権は、国土の大半が欧米諸国の租借地で、有色人種の国々が欧米諸国の植民地から独立して、日本の味方になって欲しい、と考えていた日本人は、大東亜戦争のスローガンを八紘一宇(はっこういちう)(「天の下では民族などに関係なく全ての人は平等である」)と定めて、全有色人種のために戦いました。GHQは、「大東亜戦争」と同じく「八紘一宇」も軍国主義の言葉として、使用を禁止します。

真珠湾攻撃では大勝したものの、破壊したのは第一次世界大戦で使われた老朽船なかりで、最新鋭戦は避難していました。半年後、新型船が停泊しているミッドウェーを攻撃しますが、
暗号を解読していた米軍の返り討ちに会い、空母4隻とその搭載機290機が全滅。ここから日本の連敗が始まります。

なぜなら国力に差がありすぎました。国力というのは軍事力ではなくて、軍需品の生産能力の事です。空母とか戦闘機とかばかりではなく、銃の弾などもそうです。国力というのは「人・物・技術」の事です。お金ではありません。戦争とはお互いの供給能力の潰しあいです。

例えば、空母の生産を見ると、
1941年の時点では、日本は生産していましたが、アメリカはしていませんでした。
1942年では、日本は2隻造っていますが、アメリカは1隻だけ。ところが、
1943年から45年では、日本は0ですが、アメリカは毎年7隻づつ造りました。

戦闘機は、1941~1945年の間で、
日本は3万機ほど造りましたが、アメリカは9万機。
大型爆撃機は、1941~1945年の間で、
日本は384機造りましたが、アメリカは3万2千機。

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