仏教伝来



継体(けいたい)天皇の皇子(おうじ)である欽明(きんめい)天皇の皇子(おうじ)の用明(ようめい)天皇の第二皇子が聖徳太子(しょうとくたいし)で、摂政(せっしょう)として仕えた推古(すいこ)天皇が欽明天皇の皇女(ひめみこ)に当たります。

継体天皇の曽孫である聖徳太子の時代に、大陸から仏教が伝わりました。
「仏教伝来」と言うよりも最近では「仏教公伝」と言われることの方が多いです。

「仏教は、西暦538年、もしくは、552年に、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇に伝えた」と言われていたのですが、実は、それ以前から、民間の信仰として、日本に入ってきていたことがわかっています。

朝鮮半島に仏教が伝わっていたならば、当時は半島と日本列島の間で、大勢の人が行き交っていたわけで、普通に仏教信者が日本にやって来たという事でしょう。公に国家間で仏教が伝えられたから、仏教公伝なんですね。

そもそも、仏教は、インドで、紀元前500年頃、今から2500年も昔に、生まれた宗教です。
ゴータマ・シッダールタというインド北部のシャーキャ族の王子として産まれた人物が、開祖です。

ちなみに、お釈迦様ことシッダールタ王子は、お母さんの右脇から産まれ、いきなり7歩歩いて、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんが、ゆいがどくそん)との言葉を発したことで有名です。

「人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さ」を意味しています。

シッダールタが最終解脱(さいしゅうげだつ)して、ブッダとなりますが、そのブッダの教え、すなわち仏教は、インド北部から東南アジアに伝わった南伝仏教、別名、上座仏教と中央アジアから中国・朝鮮半島に向かった北伝仏教、別名、大乗仏教と2つのルートで東に伝播していきます。日本に伝わったのは、主に大乗仏教の方です。

日本と関係が深い百済(くだら)に伝わったのが、4世紀末、西暦380年から390年頃と考えられています。仏教が生まれたのが、紀元前500年頃なので、900年近くが経過している訳です。日本に公式に伝わったのが、西暦538年なので、1000年以上が経過していることになります。「1000年かけて、仏教が日本に伝わった」と言うだけならば、数秒ですが、実は、その1000年間には、様々な人々の言動や人生が詰まっているという話ですね。

朝鮮半島の百済では、5世紀になると、仏教信仰が盛んになります。これは百済(くだら)が高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)から軍事的な圧力を受け続けていたことと無関係ではないと思われます。

西暦475年に、高句麗に王と漢城、今のソウルを落とされて、一旦百済は滅亡しました。その後、百済は生き残りの王族が南方に都を移し、再興しましたが、度重なる敵国の侵略は、百済の人々にとって、仏教が説く最悪の時代、つまりは、末法の世、に生きている、との意識を高めたのではないでしょうか。百済の国力の衰退と仏教の信仰が強まっていったのとが、完全に同じ時期になりますので。

それにしても、4世紀末には、仏教が百済に入っていたにもかかわらず、なぜ6世紀、538年まで、日本に公式に仏教が伝わることがなかったのでしょうか?百済と日本の関係は深く、しかも海を挟んだお隣であるにもかかわらず、100年以上も仏教は、公式には玄界灘を越えることがなかったのはどうしてでしょうか?

何しろ我が国は、八百万の神の国です。天皇陛下は、神武天皇、さらには、天照大御神(あまてらすおおみかみ)・伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)という神話の時代からの血筋を引き継ぐお方なんです。そんなことは百済側(くだらがわ)も100も承知でしょう。

仏教というのは、一応、仏様を信仰の対象として崇める宗教の一種なので、既に八百万の神々を信仰しており、しかも主神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)の直系の子孫の天皇陛下を国家元首としていただいている国に、「仏様を拝みませんか?」とやるのは、結構微妙でしょう。

特定の宗教を信じている人達に、「自分が信じる神を信じろ」などと言うと、下手をすると、戦争になりますから。

神社に初詣に行き、七五三を祝い、クリスマスに彼女にプレゼントを買い、聖ウァレンティヌスことヴァレンタインの殉教日に、なぜか彼氏にチョコレートを贈り、元々はケルト人の祭りのはずだったハロウィンに仮装して、渋谷で暴れ狂い、結婚式は教会でやって、死んだらお寺でお葬式を挙げるという、現代日本人には分からないと思いますが、世界中では信仰のために戦争が起こるのは不思議な事ではありません。

何でもかんでも、なんとなく受け入れて生活に取り入れる日本人には、なかなか理解しにくいですが、改めて歴史を考えてみると、確かに人類は宗教の違いが理由で、散々に血みどろの争いを繰り返しています。となると、バリバリの神道の国、八百万(やおよろず)の神々を信仰している国に、「仏教どうですか?」とやるのは、逡巡(しゅんじゅん)してしまいます。

しかも当時は、天皇の周囲にいる大臣など、群臣の多くが神道派でしたので、新羅(しらぎ)や高句麗(こうくり)との戦争で、日本の支援がどうしても必要な百済(くだら)が、相手の特に政治判断に影響する群臣達の神経を逆なでするような真似は出来なかったでしょう。

当時日本側は、百済からのひっきりなしの軍勢派遣要請を、のらりくらりと交わしていたのですが、百済の聖明王(せいめいおう)は、何としても日本に兵を出して欲しかった。というわけで、西暦538年(552年という説もありますが)、聖明王が中国の遼(りょう)から手に入れた貴重極まりないきらびやかな仏像と仏教の経典を、貢物(みつぎもの)として欽明天皇(きんめいてんのう)に送りました。これが仏教公伝というわけです。

「日本書紀」には、

「是月、百濟造丈六佛像、製願文曰「蓋聞、造丈六佛功德甚大。今敬造、以此功德、願天皇獲勝善之德、天皇所用彌移居国倶蒙福祐。又願、普天之下一切衆生皆蒙解脱。故造之矣。」

(この月(即位6年9月)に百済は丈六(ジョウロク=1丈6尺)の仏像を造りました。願文を作って言いました。
「聞いたところによると、丈六の仏を造った功徳(ノリノワザ)はすばらしく大きいとのこと。今、敬い、造りました。この功徳をもって、願わくば、天皇は勝善徳(スグレタイキオイ)を得られて、天皇が治める弥移居国(ミヤケノクニ=官家国=ここでは百済と任那を指す)はともに幸いを被りましょう。また、願わくば、普天(アメ)の下の一切の衆生(イケルモノ)は皆、解脱(ヤスラカナルコト)を被りましょう。そのために造ったのです」

と記されています。

欽明天皇の時代。百済の聖明王が大臣を日本に遣わし、釈迦仏(しゃくぶつ)の金銅像一軀(こんどうぞう・いっく)・幡蓋若干(ばんがい・じゃっかん)。それに経論若干巻(きょうろん・じゃっかんかん)を献上しました。

つまりは、お釈迦様の仏像・仏教の祭具。それにお経です。仏像と祭具とお経を3点セットにして、聖明王は欽明天皇に献上したという事です。

「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝国流通畿內。果佛所記我法東流。」

現代語訳:「この法(ミノリ)は諸々の法の中で最も優れています。理解しずらく、入りづらいものです。周公・孔子も理解することはできませんでした。この法はよく出来ていて、量もなく、限りも無く、福徳果報(イキオイムクイ)を成し、優れた菩提(ボダイ=煩悩・執着を捨てて解脱すること)を成します。例えば、ある人が随意宝(ココロノママナルタカラ=思い通りになる不思議な宝=如意宝珠のこと)を手に入れて、必要な場所で、全て心のままになるようなもので、この妙法の宝も同じなのです。祈り願えば、心のままになり、足りないものなどありません。それは遠く天竺(テンジク=インドのこと)からこの三韓にたどり着くまでに、教(ミノリ)に従い奉り、尊ばれ敬われなかったことなどありません。それで百済の王の臣の明(メイ)は謹んで陪臣(ハベルマヘツノキミ)の怒唎斯致契(ヌリシチケイ)を派遣して、帝国(ミカド)に伝え奉ろうと、畿内(ウチツクニ)に流通(アマネハサム)したのです。仏が『我が法は東に伝わるだろう』と記したことを果たしたのです」

前半は難しい言い回しですが。要するに、すごくて素晴らしくて、遠くインドから朝鮮半島まで、みんな尊敬しているのが仏教ですよ、と。仏様も自分の考えが東に伝わると言ったので、私聖明王も、その意思を汲んで、日本に仏教を伝えますということですね。

「何でも思い通りになるようなものだから、信じてみなさい」という訳ですが、個人の欲求を刺激して、宗教を普及させるのは、普通の事なので。

それで、聖明王から仏教を紹介された欽明天皇は、特に採用とも不採用とも言わず、群臣に判断を委ねました。

「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」
現代語訳:「朕(ちん)は昔からこの方、いまだかつてこのように、細かく詳しい法を聞いたことが無い。しかし、朕は自らでは決められ無い」

「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」
現代語訳:「西蕃(ニシノトナリノクニ=朝鮮半島の国のこと)が献上した仏の顔は端厳(キラギラ)しいものだった。いまだかってこのようなものは無かった。礼を持って接するべきか否か!」

欽明天皇の問いに対し、武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫である蘇我氏の長、蘇我稲目(そがのいなめ)が答えました。

「西蕃諸国一皆禮之、豊秋日本豈獨背也。」
現代語訳:「西蕃(ニシノトナリノクニ)の諸国は皆、もっぱら仏を敬っています。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)だけが、どうして独りで背くことができましょうか」

蘇我稲目の父親は、蘇我高麗(そが の こま)。高句麗(こうくり)の高麗(こま)ですね。高麗(こうらい)と書いて高麗(こま)ですね。さらに祖父の名は、蘇我韓子(そがの からこ)。つまり韓の人いう意味だったので、蘇我氏は、元々朝鮮半島の任那や韓と関係が深かったのかもしれません。つまりは、朝鮮半島の倭人コミュニティや百済などとの交易をしていた商人だったのではないかと。蘇我氏は、伝統的に、朝廷の財政を管理しましたので、そう考えた方が、色々としっくり来ます。

それで、朝鮮半島と関係が深かった可能性が高い蘇我稲目は、もちろん仏教について、元々知っていたでしょうし、半島のビジネス相手との関係が良好になることを期待して、仏教の受け入れを帝(みかど)に勧めました。

とはいえ、もちろん当時の朝廷には、外来の宗教を受け入れることに反対する人々も多く、というか、そちらの方が圧倒的な多数派でした。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)以来の日本の古来の神々を信じる勢力ですね。いわゆる保守派です。

「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」
現代語訳:「朕(ちん)は昔からこの方、いまだかつてこのように、細かく詳しい法を聞いたことが無い。しかし、朕は自らでは決められ無い」

「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」
現代語訳:「西蕃(ニシノトナリノクニ=朝鮮半島の国のこと)が献上した仏の顔は端厳(キラギラ)しいものだった。いまだかってこのようなものは無かった。礼を持って接するべきか否か!」

欽明天皇の問いに対し、武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫である蘇我氏の長、蘇我稲目(そがのいなめ)が答えました。

「西蕃諸国一皆禮之、豊秋日本豈獨背也。」
現代語訳:「西蕃(ニシノトナリノクニ)の諸国は皆、もっぱら仏を敬っています。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)だけが、どうして独りで背くことができましょうか」

蘇我稲目の父親は、蘇我高麗(そが の こま)。高句麗(こうくり)の高麗(こま)ですね。高麗(こうらい)と書いて高麗(こま)ですね。さらに祖父の名は、蘇我韓子(そがの からこ)。つまり韓の人いう意味だったので、蘇我氏は、元々朝鮮半島の任那や韓と関係が深かったのかもしれません。つまりは、朝鮮半島の倭人コミュニティや百済などとの交易をしていた商人だったのではないかと。蘇我氏は、伝統的に、朝廷の財政を管理しましたので、そう考えた方が、色々としっくり来ます。

それで、朝鮮半島と関係が深かった可能性が高い蘇我稲目は、もちろん仏教について、元々知っていたでしょうし、半島のビジネス相手との関係が良好になることを期待して、仏教の受け入れを帝(みかど)に勧めました。

とはいえ、もちろん当時の朝廷には、外来の宗教を受け入れることに反対する人々も多く、というか、そちらの方が圧倒的な多数派でした。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)以来の日本の古来の神々を信じる勢力ですね。いわゆる保守派です。

別に善悪ではなく、当時の日本は、古来の神々を大切にする保守派と西方から渡来した仏教を信じようとするグローバル派の両派に分かれていました。保守派の代表が大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべ の おこし)でした。神道との関係が深かった物部(もののべ)氏にとって、外来の神を受け入れるなど言語道断だったんです。ということで、物部尾輿らが言うには、

「我国家之王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致国神之怒。」
現代語訳:「我が国家、天下に王としているのは、常に天地社稷(アマツヤシロクニツヤシロ)の百八十神(モモアマリヤソカミ)であり、春夏秋冬に祭り拝むことを事業としています。今、これを改めて、蕃神(アタシクニノカミ=異国の神)を拝めが、恐ろしいことに、国神(クニツカミ=国津神)の怒りがあるでしょう」

「宜付情願人稻目宿禰試令禮拜。」
現代語訳:「願う人である、稲目宿禰(いなめ・すくね)に仏を授けて、試しに敬い拝むことにしよう」

と、欽明(きんめい)天皇はおっしゃられました。

蘇我稲目(そがの・いなめ)は喜び、仏像を家に祭り、さらにはお寺を建設しました。ところが、その後の日本では、疫病が幾度となく発生することになりました。

保守派というか、正式には廃仏派の物部氏などの群臣達にとっては、疫病流行は仏教を拒絶すると同時に、権力を争う蘇我氏を没落させる好機でした。それで、物部尾輿(もののべの・おこし)らは、欽明天皇に注進しました。

「昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。」
現代語訳:「昔のあの日(=蘇我稲目に仏像などを渡した日のこと)、わたしめの提案を用いなかったから、このような病気による死が蔓延しているのです。まだ、遅くありません。元どおりにすれば、必ず良いことがあるでしょう。早く仏像や経典などは投げ捨てて、後の幸福を求めましょう」

欽明天皇は

「依奏。」
現代語訳:「申すままに」

とおっしゃり、役人が蘇我家の仏像を難波の堀江に流し捨て、さらに寺に火を点けて焼いてしまいました。すると、にわかに宮の大殿に火災が発生しました。
もちろん「仏を粗末に扱ったため」というプロパガンダが展開されたことは間違いありません。互いに、不幸を相手のせいにして、権力闘争を勝ち抜こうとしていたわけです。

当時は、日本でも疫病が繰り返し発生していましたが。これは仏教や神道とは、何の関係もなく。単に任那(みまな)が滅亡に追い込まれ、百済(くだら)も聖明王(せいめいおう)が戦死するほどの危機に突入し、大勢の難民が海を越えて日本列島に流れ込んだためでしょうね。神様や仏様が病を運ぶことは、ありません。疫病を運ぶのは、常に人ですから。

古代日本の場合は、朝鮮半島との間の国境ですが。国境の向こう側からは、良きものもやってきますが、悪しきものも訪れるという話です。

古代日本の場合、他国の軍隊が攻め込んできたわけではないので、任那や百済の人達よりは、マシだったんですが。高句麗や新羅の軍が、頻繁に侵略してくるため、亡国の響きが刻一刻と近づいてくる状況で、百済や任那で仏教が一気に広がったのは実に分かりやすいです。また日本の場合も、疫病という災厄が続き、既存の信仰にすがるのみならず、新たな神を求めてしまう人々が増えたのも、自然な成り行きだったのではないでしょうか。
古代ローマが、繰り返し疫病に襲われて、キリスト教に人々が救いを求める状況が続いたため、一気に普及したのと同じです。

特にキリスト教の場合は、疫病に苦しむ人々を看病し、自分も感染して命を失うはめになっても、善行を積んだというわけで、死後に天国に行けると考えるんです。実際、古代ローマで疫病が流行した際には、キリスト教徒だけが逃げずに踏みとどまり、最後まで患者を見捨てなかったようです。キリスト教が広まったのも、当然と言えば当然でしょう。

ローマ帝国には、ジュピターを主神とする既存の神々がいたというか、信じられていたんですが、次第にキリスト教という一神教に駆逐されていくことになります。

欽明(きんめい)天皇、更には、次代の敏達(びだつ)天皇の御代(みよ)と実によく似ています。国中で災厄が繰り返される中、新たな宗教である仏教と既存の神々、つまりは、八百万(やおよろず)の神々が勢力争いを繰り広げたわけです。もちろん、争っているのは、神々ではなく、人間、権力者達ですが。

大和王朝における保守派(廃仏派)とグローバル派である革新派(崇仏派)との争いは、物部尾輿(もののべ の おこし)・蘇我稲目(そが の いなめ)の息子の代にまで持ち越されることになりました。

欽明天皇が亡くなり、第二皇子の渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)が敏達天皇として即位するんですが。敏達天皇は、明確な廃仏派でした。

当時の蘇我の頭領は、歴史に名高い蘇我馬子(そがのうまこ)だったんですが、敏達天皇の時代は、廃仏派の物部守屋(ものんおべのもりや)の派閥が勢いづき、敏達天皇に仏教禁止を提言しました。

奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、国民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」
現代語訳:「どうしてですか!
わたしめどもの言葉を用いて肯定しないのですか。孝天皇(カゾノミカド=父天皇=欽明天皇)から、陛下(キミ=敏達天皇)まで、疾病が流行して、国の民が絶命しました。どうして、蘇我臣が仏法を興行したためではないというのでしょうか!」

当時朝廷は物部(もののべ)派と蘇我(そが)派に分かれ、激しく権力を争っていました。というわけで、物部守屋(もののべ の もりや)らの提言を受けた敏達(びだつ)天皇は、

詔曰「灼然、宜斷佛法。」
現代語訳:詔(ミコトノリ)して言いました。
「灼然(イヤチコ=明らか)ならば、仏法は止めよ」

敏達天皇が、仏教を事実上禁止したのを受け、勢いに乗った物部守屋らは、蘇我氏をはじめ、崇仏派への弾圧を始めました。

丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。
現代語訳:3月30日に物部弓削守屋大連物部 守屋(もののべ の ゆげ もりや おおむらじ)は自ら寺に詣でて、胡床(アグラ=床几=折りたたみ椅子)に座っていました。その塔を切り倒して、火をつけて焼きました。一緒に仏像と仏殿を焼きました。焼いたところの焼け残った仏像を取り、難波の堀江(ホリエ)に捨てました

ところが、敏達天皇は、仏教禁止令を出したまさにその年に、病で亡くなってしまいました。

敏達天皇の葬儀の際に、物部守屋が小柄な体に大きな刀を帯びた蘇我馬子(そがのうまこ)をあざ笑って言うには、

「如中獵箭之雀鳥焉。」
現代語訳:「猟で使う矢に当たった雀鳥(スズミ=スズメ)のようだ!」

物部守屋は、廃仏派であると同時に、軍人でした。というよりも、そもそも物部の一族が朝廷の軍務を司る軍事氏族だったんです。軍人の身からしてみると、財務担当の文官であった蘇我馬子のお仕着せのような武人の装いが、滑稽に思えたんでしょうね。

それにしても、崩御した天皇のお葬式の場で、大臣が同僚の大臣を嘲笑するって、これは対立激化必至です。

両派の対立は、最終的には武力を用いた争いに突入するんですけど、その前に蘇我馬子(そがのうまこ)の父親、蘇我稲目(そがのいなめ)は、自分の娘を2人欽明(きんめい)天皇に嫁がせていました。

姉の堅塩媛(きたしひめ)と欽明(きんめい)天皇との間に産まれたのが、第31代となる用明(ようめい)天皇。それに第33代の推古(すいこ)天皇。妹の小姉君(おあねのきみ)との間に産まれたのが第32代の崇峻(すしゅん)天皇や穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。そして穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と用明天皇が結婚し産まれたのが、厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと聖徳太子(しょうとくたいし)です。

つまり、蘇我馬子(そがのうまこ)は欽明(きんめい)天皇に嫁いだ姉妹の兄弟で、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇という三代の天皇からしてみると、叔父にあたる立場だったということです。

物部守屋(もののべのもりや)の側(がわ)からしてみると、崇仏派で目ざわりな蘇我馬子を失脚させたいのは、やまやまですが。何しろ皇族と姻戚関係でガッチリと結びついている。直接的に手を出すのは、さすがに難しかったのではないかと。とはいえ、最終的に、物部と蘇我の両派は、武力で決着をつけることになります。

敏達天皇の死後、第31代用明天皇が即位しました。聖徳太子の父親に当たる方です。ところが天皇は病弱でございまして、病を経て仏法を奉りたい、より具体的には、仏・法・僧の三法に帰依したい、と群臣に諮ります。当然ながら廃仏派の物部勢と崇仏派の蘇我勢が全面衝突。物部守屋らが猛反対して言うには。

「何背国神、敬他神也。由來不識若斯事矣。」
現代語訳:「どうして国神(クニツカミ)に背いて、他神(アタシカミ)を敬うのですか! 由来(モトヨリ)、このようなことは分かりません!」

対する蘇我馬子が反論し、

「可隨詔而奉助、詎生異計。」
現代語訳:「詔(ミコトノリ)に従って、助け奉るべきだ。誰が、奇妙な計画をなそうとしているのか」

馬子は、天皇の詔が下った以上、相談するまでもないと守屋らの反対論を切り捨てたわけですが。ここに両派の対立は決定的となり、物部守屋は朝廷を去り、本拠地の河内で軍を集め始めます。その直後、用明天皇が崩御し、両派閥の争いを止めるものはいなくなりました。

物部守屋(もののべ の もりや)が軍勢を終結させたことを受け、蘇我馬子(そが の うまこ)は、味方となる豪族達とともに、兵士を率いて河内に向かいました。いわゆる丁未の乱(ていびのらん)ですが。その際に、馬子は自分の姪孫(てっそん)、つまりは甥(おい)の子どもに当たる少年を同行させました。その少年こそが、厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと、聖徳太子(しょうとくたいし)です。

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