ユーラシアステップの文明



ユーラシアステップとは、ユーラシア大陸の広大なステップ(平らな乾燥した土地)の事で、
満州、モンゴル高原、タミール高原、キプチャク草原、ウクライナ、モルドバ、ハンガリーに至って分布している広大な乾燥地帯の事です。

この世界最大の草原地帯であるユーラシアステップからは、騎馬民族の大帝国が何度も勃興し、世界の文明に大きな影響を与えて来ました。
恐らく、ユーラシアステップから文明的な影響を、ほぼ受けていないのは、日本だけ、だと思われます。

日本がユーラシアステップからの影響を全く受けていない事がわかる理由は、「たんぱく質の摂取方法」です。

たんぱく質は三大栄養素の一つですが、人体の20%を占める大変重要な栄養素です。たんぱく質なしでは、人間は肉体を維持できませんので。筋肉も、骨も、内臓も、血液も、皮膚も、毛髪も、人体を構成する要素は、全て、たんぱく質から出来ています。

なので、常に、たんぱく質の摂取が必要となります。大豆や小麦など、植物から摂取する植物性たんぱく質と肉、魚などで摂取する動物性たんぱく質と、があります

特に動物性たんぱく質は、人間が健康を保つ上で不可欠な必須アミノ酸を含んでいます。という訳で、重要な栄養素である必須アミノ酸を、いかにして獲得するのか、その摂取の仕方が文明を分けてしまいました。

日本には、高い山々も多く、周りを海で囲まれているので、古来から日本人は、魚や貝などで動物性たんぱく質を摂取しましたが、それに対して、ユーラシアステップの人達は動物から、たんぱく質を摂取した、という事です。日本の場合、海産物が豊富なのに加え、宗教上の理由で、四つ足の動物を食べる事がタブーでした。ヒンズー教徒が牛を、イスラム教徒が豚を、食べないのと同じです。

という訳で、日本人は海産物で、も重要な栄養素、動物性たんぱく質を獲得し、食事と歴史を積み重ねてきました。

それが、ユーラシア大陸では違います。ユーラシア大陸では、たんぱく質を、家畜の群れを飼う、牛、羊、山羊、等から摂取して来ました。

もっとも、牧畜の歴史は農耕なみに古く、古代メソポタミアや古代エジプトにおいて、既に始まっていたようです。
元々、人類が狩猟生活を営んでいたのは確かなのですが、農耕が先か牧畜が先なのかは、わかりません。ユーラシアステップでは農業が不可能なので、狩猟生活から牧畜に移っていった事は間違いないでしょう。乾燥地帯で、水が乏しいですから。

で、水が乏しいユーラシアステップに住む人達は、人間が消化できない草原の草を、人間が消化できるような形に変える必要がありました。それで、牧畜で、羊や山羊に草を食べさせ、人間が食べられる肉や乳製品に変える事で、ステップ地帯で生き残ることが出来た訳です。

ユーラシアステップの人々にとって、家畜は財産の全てでした。牧畜は動物性たんぱく質を摂取する唯一の手段だったからです。

草原で家畜を追う遊牧民は、日常的に何百頭もの家畜を管理する必要があった訳です。逃げられたら命に関わりますので。とはいえ、「何百頭もの家畜を柵に囲まれていない草原で放牧し、思い通りに移動させる。」これには高度な管理技術が必要になります。また、家畜の血統を管理して、遊牧民に従順にさせると同時に、肉質を向上させるために、去勢技術が発展していく事になりました。

去勢された家畜は、飼い主に対して、非常に従順になります。以前の動画でも解説したことがありますが、遊牧民達が草原を駆け回る際に乗っている馬は、去勢された雄馬です。

というわけで、ユーラシア・ステップ発祥の家畜の管理技術と去勢が、人間にも応用されることになりました。人間を管理する技術は奴隷制度。さらに去勢された男性を官僚として雇用するのは、宦官制度です。奴隷制度や宦官は、ユーラシア大陸全域に文明として伝わりました。古代ギリシャや古代ローマにしても、戦争捕虜は基本的に奴隷にされました。宦官は、中国が有名なのですが。後宮を管理する官僚として重宝され、古代ローマやギリシャ、イスラム諸国、北アフリカなど。各地に存在しました。

それに反して、奴隷制度も宦官制度も、日本社会に根付くことはありませんでした。結果、日本のみがユーラシア・ステップ発祥の人間を管理する、男性を去勢するといった、一応文明と呼びますけど、この文明とは無縁な形で発展しました。日本も中国から律令制度を入れた際に、一応奴婢制度ができましたが、律令制崩壊とともに瓦解して、10世紀には奴婢廃止例が出ました。また宦官に至っては、制度的に存在したことはありません。

日本人は、主に海産物から動物性たんぱく質を摂ってきました。海産物、つまりは、魚や貝などですが、魚や貝は、家畜とは違い、人間が管理することは出来ません。日本人は、自然の恵みを、最も重要な栄養素として摂取し、日々の営みと歴史を積み重ねてきたのです。というわけで、家畜を管理することが発祥の奴隷制度、宦官制度といった文明は、合わなかったわけですね。

日本とは異なり、家畜を管理しなければ生き延びられない過酷な草原地帯で勃興した遊牧民の文明ですが。歴史的に確認されている最初の遊牧国家は、今のウクライナ南部、キプチャク草原で勢力を誇ったキンメリア人と言われています。

キンメリア人は、はじめ、アジアの遊牧民であったのですが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、ヴォルガ川を渡り、キンメリア地方に移ったと言われています。マッサゲタイ人というのは、中央アジアの遊牧民です。マッサゲタイ人に攻められたスキタイ人が、ヴォルガ川を越えて西に進み、キンメリア人が住んでいた地域に移ったと古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが、自著の「ヒストリア」に書いています。

この中でも、スキタイ人は、イラン系の遊牧騎馬民族なんですけど。黒海の北岸を中心に、アケメネス朝ペルシャ帝国と覇を競うほどの遊牧国家を築き上げることとなります。

ちなみに、アケメネス朝ペルシャ帝国は、紀元前6世紀から5世紀にかけて最盛期を迎えた、今のイランを中心に、西はエジプトから、東はインダス川に到る広大な領域を誇った王朝です。特に第9代王であるダレイオス1世は、国内に王の道と呼ばれる街道網や港湾を整備し、度量衡を統一し、貨幣制度も整備しました。

その後の人類文明に大きな影響を与えた大帝国とスキタイが真っ向から衝突して、最終的には、アケメネス朝の軍隊を撤退させました。

遊牧民は馬に乗り慣れているため、成人男性のほとんどが、そのまま騎兵となります。さらに日常的に狩猟も行っており、騎射。つまり騎乗したまま矢を射かける技術も高い。結果、ひとたび遊牧民の集団化が始まると、たちまち強大な軍事国家が出来上がることになります。

スキタイから騎馬技術を伝えられ、中央ユーラシアに大帝国を築いた匈奴(きょうど)。さらにはフン・アヴァール・ハザール・ウソン・ウガン・鮮卑(せんぴ)・鉄勒(てつろく)・柔然(じゅうぜん)・高車(こうしゃ)・突厥(とっけつ)・ウイグル・キルギス・ブルガール・キタイ・カラハン・カラキタイ・マジャール・ホラズムシャー・キプチャクなどなど。ユーラシア・ステップを舞台に、無数の遊牧民国家が勃興し、滅んでいきました。

民族的に、後世に最も影響を与えた遊牧国家は、おそらく突厥です。突厥とは、テュルクとも呼びます。別の言い方をすると、トルコです。テュルクとトルコは、まったく同じ単語ですが、日本の歴史学会では、突厥のことをテュルクと呼びます。で、その突厥の人々は、突厥滅亡後も、ユーラシア・ステップで活躍し、いくつもの遊牧民の帝国を打ち立てます。ウイグル・キルギス・カラハン朝など。すべてトルコ系です。

トルコ系の遊牧民達は、次第に西へ西へと向かい、モンゴル帝国とも融合しつつ、最後にはアナトリア半島に到達し。トルコ系のオスマン家の出身者を皇帝として頂(いただ)く多民族国家、オスマン帝国を築き上げます。もっとも、オスマン帝国時代は、トルコ人という言葉は、遊牧民・田舎者といった意味の別称だったんですけれども。

ちなみに、現在のトルコ人達は、堂々とトルコと名乗っていますが、それは、オスマン帝国が第一次世界大戦で解体され、トルコ共和国が建国された際に、初代大統領のケマル・アタテュルクが、国家のアイデンティティ、つまりはナショナリズムの礎として、トルコ民族主義を打ち出したからです。自分の国は、いかなる事情で、こういう国家であるのかを説明する思想的な基盤です。
日本の場合、何しろ2000年以上も昔から続いている国なので、ほとんどの日本人は、この手のことを考えることはありませんが、大帝国の解体を受けて成立した、当時のトルコ共和国では、自分達はいかなる国の国民であるかと自分達を納得させる理屈が必要でした。日本人は恵まれすぎていて、その重要性に気が付かないわけです。

現トルコ共和国において、建国の日は、西暦552年とされています。西暦552年は、突厥が成立した年です。それがトルコ民族主義というわけです。もちろん、突厥が現トルコ人の遠い先祖である可能性は高いのですが、本当のところは良くわかりません。

元々の突厥があった地域というと、今の国名で言えば、カザフスタンやキルギス、トルクメニスタン、・ウズベキスタン、さらには、中国の東トルキスタン(中国共産党は、新疆(しんきょう)ウイグル自治区と呼んでいますが。)、すべてトルコ系です。加えて、黒海(こっかい)とカスピ海の間。コーカサスのアゼルバイジャンもトルコ系。今のトルコから中国に至るまで、トルコ系の方々が大勢住んでいるわけです。

大モンゴル帝国を築いたモンゴル人は、トルコ系ではありませんが、トルコ系民族とは、切っても切り離せない関係にあります。遊牧民は、文字通り放牧で家畜を飼い、暮らしていますけども。当然ながら、穀物や布類・日用品など。農耕地帯で生産される物品を必要としていました。特に栽培に際して、水を大量に必要とする米などは、草原では贅沢品でした。

逆に、草原地帯の遊牧民は、乳製品・革製品・馬などを産出します。というわけで、農村地帯と草原地帯との間を行き来し、交易をして生業を立てる商人達が存在しました。当時のステップの通商を握っていたのが、主にトルコ系のウイグル人達です。

ウイグルは、元々トルコ系の遊牧民でしたが、遊牧民が商人に転職したという感じでした。そしてユーラシア・ステップを西へ東へと商売して周るウイグル人にとって、国境を越える際に、毎度毎度通過税を取られた、乾燥地帯に多数の遊牧国家があるのは、大変都合が悪かったのです。

というわけで、ウイグル人は、チンギス・ハンの征服国の時点から、モンゴル帝国に協力的な姿勢を取りました。当時のウイグル王は、チンギス家の娘を妻にもらい、いわばモンゴルに婿入りしたわけですね。モンゴル帝国は、クビライ・カーンの時代に、朝鮮半島からポーランドまでを支配下に置き、通過税を撤廃したので、ウイグル商人達の賭けは見事に当たったことになります。モンゴル人は、それほど数が多かったわけではないため、モンゴル帝国では、ウイグル人以外も、様々な人種・民族が活躍することになりました。

今のロシアよりも大きな国家が、大モンゴル帝国ですので、単一民族の国家であるはずがありません。遊牧民は、農耕民族と比べると、元々異なる人種・言語・民族の人々と触れ合う機会が多いから、当然そのようになります。特にモンゴル人は、異なる民族であっても、イル・モンゴル(モンゴルの身内)として受け入れていきました。ウイグル人をはじめ、トルコ系の遊牧民達は、続々とモンゴルの身内、イル・モンゴルとなっていったのです。

牧歌的な話ではなく、単にモンゴル軍が最強だから、ユーラシア・ステップ中の諸民族が、力の論理に従った結果なのですが。

何しろ、草原での遊牧生活は、過酷です。家畜に食べさせる草が尽きたならば、他の地域に移動しなければなりません。そこに別の部族が既に放牧していたとなると、即戦闘が始まります。

草地を譲ると、部族が餓死する。奥さんも子どもも死ぬ。条件は、相手も同じなんですね。戦うしかありません。そして負けた方は生き延びられない。

常に馬に乗り、騎馬の戦士として家畜を追い、生き延びるための戦いが日常茶飯事。そりゃ農耕民族はかないません。しかも、ユーラシア・ステップの遊牧民達は、草原で食い詰め、どうにも生き延びることができないと判断すると、途端に農耕地帯に略奪目的でなだれ込んで来ました。

実際、ユーラシアの歴史は、ユーラシア・ステップの遊牧民達により動かされてきたと言っても過言ではありません。

「乾燥地帯は、悪魔の巣だ。乾燥地帯の真ん中から現れる人間の集団は、どうしてあれほど激しい破壊力を示すことができるのだろうか。とにかく昔から何遍でも、ものすごくむちゃくちゃな連中が、この乾燥した地帯の中から出てきて、文明の世界を嵐のように吹き抜けていった。その後、文明はしばしば癒すことの難しい打撃を受ける。」

と、文明の生態史観で有名な日本の梅棹忠夫は、書いています。

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