大東亜戦争 その1



まず、「大東亜戦争」という名前を見ると、「軍国主義」とか「右翼」とかを連想される方も少なくない事だろうと思います。「太平洋戦争」と呼ぶのではないでしょうか。

そもそも戦争ではない「支那事変」の事を「日中戦争」などと表現しているのと同じでしょう。「支那事変」では、中華民国の国民党政府も日本政府も宣戦布告していませんし。昭和50年代半ばまでは、日本の歴史の教科書にも「日華事変」と書かれていましたし。
蒋介石の重慶政府が日本に宣戦布告してきたのは、1941年12月9日。それで、当時の東条内閣は12月12日に、アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、等の戦争に、支那との戦いも含めて、「大東亜戦争」と呼ぶと閣議決定をしました。そもそも「ビルマ戦線」も「太平洋戦争」ではおかしいですし。「太平洋戦争」という言葉は、戦後GHQが日本に押し付けた言葉です。それまでの日本国民は、皆、あの戦争の事を「大東亜戦争」と呼びましたし、開戦当時の日本政府が決めた言葉を、今の日本人が使わないのはおかしいので、この言葉を使います。「大東亜戦争」と聞くと変な気持ちになる、と、いう方がおられるとしたら、そのこと自体がおかしいのではないか、という疑問を持ってくれたら、と思います。

1937年(昭和12年)7月7日、中国北東部で北京近くの盧溝橋(ろこうきょう)で、中国軍に通達後、日本陸軍が軍事演習をやっていました。そこには日本軍だけでなく、中国軍を含む、英米仏伊の軍隊も演習を行っていました。
日本軍は演習なので空砲を使っていましたが、中国軍は日本軍に、なぜか実弾を撃ってきました。それが盧溝橋(ろこうきょう)事件です。「中国軍の偶発的射撃から始まった」というのは中国側も認めている事ですが、これが偶発的だったのかは、今では誰もわかりません。
中国国民党軍は、少なくとも、三発の実弾を、日本軍に撃って来たのだけは確かな事です。

当時はソ連が毛沢東の中国共産党とガッチリ手を組んでいた頃で、蒋介石は、日本軍と中国共産党軍のどちらと戦争すべきかを迷っていた時期でした。その状況で、盧溝橋事件が起こりました。戦後、毛沢東自身が「中華人民共和国が建国できたのは日本のおかげ」と語っているのを見ると、陰謀があったのかも、と疑いたくもなる事件です。

その後、日本と中国国民党は停戦して和平交渉が行われます。合意に至る寸前まで行きました。そこで問題の事件が二つ起きました。
一つ目は、1937年7月29日、中国の通州にて、中国の保安隊が在中日本人の街に攻め入り、日本人を虐殺した事件がありました。この事件の内容は、日本の新聞でも大々的に報道され、日本側の世論が沸騰してしまったのと、それに加えて、その20日後に、二つ目の事件があり、1937年8月13日、第二次上海事変と呼ばれていますが、ここで本格的に、中国国民党軍が上海に住む日本人街を攻撃し始めてました。その後、西安事件もあり、蒋介石は毛沢東ではなく、日本と本格的に戦争することに決めました。この時、日本人街を攻撃した軍には共産党の息がかかっていた、と、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著の『マオ 誰も知らなかった毛沢東』などに詳しく記載されています。真偽のほどはわかりませんが、結果的に、第二次上海事変から本格的に支那事変が始まりました。日本軍は、上海から中華民国の首都、南京へ攻撃を開始するようになります。

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