古代史上最大のヒロイン 神功皇后 第七回



エピソードが全て正しかった、と断言できませんが、神功皇后が実在したことは、相当に確実性が高いです。

神功皇后は、新羅遠征の前に、九州北部を忙しく動き回っていますが、仲哀天皇がお隠れになった時には香椎宮(かしいぐう)、層増岐野(そそきの)にて羽白熊鷲(はしろくまわし)を討伐、旧邪馬台国(やまたいこく)であろう山門県(やまとのあがた)にて土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。「魏志倭人伝」の邪馬台国ヘの道を移動しております。という事は、この道が卑弥呼の時代も神功皇后の時代も、奴国(なこく)から熊襲(くまそ)の地に至るメインストリートだったものと思われます。
その後、松浦市で鮎釣りをして、那珂川市で裂田の溝をお造りになりました。

これらのことから、神功皇后の時代には、九州北部には大和王朝に逆らう勢力が存在していなかった事がわかります。

「卑弥呼の死後内乱が起こり1000人余りが死んだ」と「魏志倭人伝」にもあります。
「北史倭国伝」(ほくしわこくでん)には、卑弥呼の死は、西暦247年、と書かれています。その後の百年間で、大和王朝は九州北部の小王朝を支配下に組み込んでいったという事がわかります。

第9代天皇の開化天皇(かいかてんのう)までは婚姻関係によって勢力を拡大してきましたが、第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)からは戦争によって勢力を拡大していった。「古事記」にも崇神天皇のエピソードとして、「この天皇の御代に、まだ朝廷の威風の及ばない遠く離れた地方に将軍を派遣することが行なわれた。」と書かれています。

倭建命(やまとたけるのみこと)の息子である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御代には、邪馬台国の支配下の全ての小国が、大和王朝の支配下にあった事がわかります。

奴国(なこく)や伊都国(いとこく)、邪馬台国が支那、朝鮮と国交を持っていたのが、日本側の主役が代わって、大和王朝になりました。そして、神功皇后以降、朝鮮の国々との戦争が始まった、という訳です。だからこそ、「古事記」や「日本書紀」には、支那、朝鮮、などの外国の話が全く出て来なかったわけです。

何度も言っていますが、皇国史観(こうこくしかん)を持ってみる訳ではなく、日本の先祖が残してくれた歴史書である「古事記」や「日本書紀」を普通に読めば良いのです。

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