古代史上最大のヒロイン 神功皇后 第五回



すると、軍船が進む勢いで打ち付けた波が、新羅(しらぎ)の国に押し上り、その国の半分にまで達しました。

新羅の王は
「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」
と言い白旗を上げ、戦わずして降服し朝貢することを誓いました。皇后は宝物庫に入って地図と戸籍を手に入れ、また王宮の門に矛を突き立てて宗主権を誇示しました。新羅王の波沙寐錦(はさ むきん)は微叱己知(みしこち)という王族を人質に差し出し、さらに金・銀・絹を献上した。これを見た高句麗・百済も降伏し朝貢を約束しました。それで日本は朝鮮半島に直轄領を置くこととなります。戦前の日本では「任那(みまな)がそうであった」という、史書どおり解釈した説が有力でした。これが、いわゆる「三韓征伐」です。

前の動画でも言及していますが、なぜか、戦後の日本の歴史学界は、この事実、そもそも神功皇后自体を無視しています。

戦前の皇国史観において、「三韓征伐を朝鮮半島領有の正当化に利用した。自虐史観的に言えば、朝鮮半島の方々に多大なる迷惑をかけたので、戦後の歴史学界では三韓征伐という史実をなかった事とし、神功皇后もいなかったことといたしましょう。」となってしまったからです。「古事記」にも「日本書紀」にも書かれているにも関わらず、です。当時の日本の軍船が新羅に攻め入り、その後、朝鮮半島の支配権をめぐり、高句麗(こうくり)と戦闘を繰り返していたのは間違いようのない史実です。朝鮮半島の正史である「新羅本紀」(しらぎほんき)には、「日本列島から軍兵が押し寄せ、金城(きんじょう)を囲んだ」という記述もあります。

更に、高句麗(こうくり)の第19代の王、好太王(こうたいおう)の石碑、いわゆる「広開土王碑」(こうかいどおうひ)が残されており、西暦391年に、「倭国が海を渡り、百済と新羅を破って、臣民としてしまった。そこで好太王は西暦396年に百済を討伐した。」と書かれております。

更に更に、「西暦399年、百済が高句麗との約束を破り、倭国と和通した。多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので、高句麗王の救援をお願いしたい、と新羅からの使いが願い出たため、大王は出陣。またもや、倭国との戦争に突入した。西暦404年には、倭国の軍が、帯方郡にまで進行してきたため、両軍が平壌で合戦になった。」と書かれているからです。

新羅から帰国すると、神功皇后は、筑紫の地で皇子をお産みになりました。この時お産まれになったのが、大鞆和気命(おおともわけのみこと)、後の応神天皇でいらっしゃいます。この土地は「宇美」(うみ)と呼ばれることになりました。

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