我が国初のヒーロー 倭建命 第一回



倭建命(やまとたける)は垂仁(すいにん)天皇の次、第12代天皇の景行(けいこう)天皇の第三皇子(おうじ)で、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の父にあたります。「日本書記」では「日本武尊」と書かれているので、こちらの方が、日本の英雄っぽいですね。またの名を、小碓尊(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)と言います。

父、景行天皇の寵妃(ちょうひ)を奪った兄大碓命(おおうすのみこ)に対する父天皇の命令の解釈の違いから、兄を捕まえ押し潰し、手足をもいで、薦に包み投げ捨て殺害してしまいます。そのため小碓尊は父に恐れられ疎まれてしまいます。

九州南部は、熊襲(くまそ)と呼ばれる勢力が支配していました。熊襲は大和王朝と対立しており、景行天皇は熊襲討伐ということで、御子の倭男具那(やまとおぐな)を派遣しました。わずかな従者も与えられなかったという記述もあるので。厄介払いのつもりだったのでしょうか。
倭男具那は、まず叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)が斎皇女(いつきのみこ)を勤めた伊勢へ赴き、女ものの衣装を授けられました。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃でした。

熊襲の地に辿り着いた倭男具那は、熊襲、建(くまそ、たける)の家が、三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていたのを見て、髪をほどき、女ものの衣装を着て、女装して、美少女に化けて、宴(うたげ)に忍び込み、熊襲と建の兄弟の間に座り、お酌をしていると二人の兄弟はすっかりのぼせあがってしまいました。倭男具那は酒宴が酣(たけなわ)になるのを見計らい、懐から短剣を取り出すと、まず兄の熊襲の胸に突き立て、弟の建(たける)は懸命に逃げ出し、美少女姿の倭男具那は階段のところで追いつき、着物の背をつかむと短剣をお尻に突き立てました。誅伐された建(たける)は死に臨み、倭男具那の武勇を嘆賞し、自らの名を譲って倭建(やまとたける)の号を献じました。倭建命(やまとたけるのみこと)は健(たける)が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺しました。

その後、大和に戻る途中でも、倭建命は山の神、河の神、また吉備国(きびのくに)で、海峡に住み着き、人々を悩ませていた穴戸(あなと)の神を平定し、出雲に入り、武勇を誇っていた豪族、出雲建(いずもたける)を討ち果たします。

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