神武東征 前編



神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)は、日向国(ひむかのくに)の高千穂で、兄である五瀬命(いつせのみこと)に、葦原中国(あしはらのなかつくに)を治めるにはどこへ行くのが適当か相談したところ、火遠理命(ほおりのみこと)に綿津見神(わたつみのかみ)の宮殿へ行くように言った塩椎神(しおつちのかみ)が「東に美地(よきくに)あり。青山、四方(よも)にめぐれり」と、東へ行くことを勧めたこともあり、二柱(ふたはしら)は、そのようにすることにしました。

神倭伊波礼毘古命や五瀬命(いつせのみこと)とともに、舟軍を率いて、日向(ひむか)を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着きました。宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比売(うさつひめ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げました。彼らはそこから移動して、岡田宮(おかだぐう)で1年過ごし、さらに阿岐国(あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国(きびのくに)の高島(たかしま)の地に仮宮(かりみや)を作り8年過ごしました。当時は九州の海岸を北上するだけでも大変な苦労だったことでしょう。船団を率いている以上、船乗りたちの食糧や水、健康にも気を配りながら、なので、並々ならぬ苦労を強いられたのではないでしょうか。岡山市の津島遺跡では弥生時代前期の集落や水田の跡地が発見されています。当時の岡山は穀倉地帯で充分な兵糧を確保することが出来たものと思われます。

吉備国を発って瀬戸内海を東へ向かい、激しい波に乗り、浪速国(なみはやのくに)の「難波の碕(なにわのみさき)に着いて1ヶ月滞在し、さらに遡って河内国草香邑(くさかむら)の白肩津(しらかたのつ)に停泊しました。

生駒山の麓(ふもと)まで舟でやって来たわけです。マッコウクジラの骨が見つかったり、貝塚もあるので、神武東征の記述の正しさを証明してくれています。で、縄文時代に海が引いて行った縄文海進によって、大阪市が形成されます。紀元前1050年頃から紀元前50年までは、今の大阪市東部、東大阪市西部は潟になっていました。遠浅の海岸で、満潮になれば海に隠され、潮(しお)が引くと地面が表れるといった状態で、河内潟と呼ばれています。河内潟の時代は上げ潮になると、海水が河内潟に一気に流れ込んで、引き潮になると内陸から流れてきた河川の水と一緒に押し出されていきました。つまり、紀元前50年以降の大坂では、「日本書紀」に書いてある記述は絶対にありえない描写で、逆に、紀元前1050年頃から紀元前50年まで、に神武東征があったなら、この記述通りである訳です。仁徳天皇が河内湖の大規模公共工事をした時代でも無理な話なので、「記紀」が書かれた7世紀には、既に生駒山のふもとまで舟で行くことなど、「何を言っているのか?」という風に、筆者も感じていたのではないでしょうか。

つまり、この神武東征は、考古学的、地質学的見地から、日本の歴史がいつより前から始まっていることを、明確に示してくれているのです。

「古事記」や「日本書紀」は言い伝えを文書化したもので、「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の船団が川を遡り、白肩津(しらかたのつ)に着いた」と伝わってはいたものの、当時の日本人から見れば、「そんなこと、出来る訳がない」という話だったでしょう。七世紀の日本人は、今の自虐史観にまみれた歴史学者と異なり、言い伝えを素直に書き写しました。結果的には、科学の発展がその正しさを証明しました。神倭伊波礼毘古命の船団が浪速(なみはや)の渡り(今の上町台地の北側)を抜けて、川を遡る形で白肩津に到着することが出来たのは、河内潟の時代だけ、ですし、この時代だと、「古事記」「日本書紀」の描写以外では、生駒山の麓(ふもと)まで舟でやって来ることは出来ません。河内湾の時代には海を、河内湖の時代には静かな湖を進むことになるので、川を遡ることは出来ません。なにしろ、川がありませんから。唯一、河内潟の時代には外海に向かう川がありました。つまり、遅くとも神武東征は、紀元前50年よりも前にあったことは、科学的に証明されました。河内潟における描写の正確さが地形の変化から証明された以上、該当する人物がいたことは疑いようのない事実です。つまり、日本国の建国は、遅くとも、紀元前50年よりも前であるわけです。それより後になると、河内湖となるため、川を遡ることが不可能になるからです。

コメント


認証コード7870

コメントは管理者の承認後に表示されます。