疫病の歴史

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以前の動画で、人類史上最悪の兵器は疫病であるという事を説明しましたが、この動画では、人類の歴史とは切っても切り離せない、ユーラシアの疫病について、解説しようと思います。

疫病というか、多くの感染症の源であるウイルスは、「自己増殖ができないため、非生物である」という説が有力なのですが、そういうウイルスであっても、生存し続けようとします。
生殖機能、つまり自己増殖機能がないにも関わらず、人間や動物などに寄生し、生き延びようとします。つまりは共存です。

ウイルスは、宿主である人間が抗体を持つと、異物として排除されます。あるいは、宿主の人間が死んでしまうと、生き延びられない。というわけで、ウイルスが生存し続けるためには、できるだけ致死性を発揮せず、抗体を作らせない形で宿主と共存する必要があります。となると、致死性が現出したとしても、簡単には絶滅には至らない人間の集団が必要になります。

ウイルスは人間から人間へと感染していくけど、抗体を持たれるのも死なれるのも困る。というわけで、多くの人間が集まって暮らしている所で、人から人へと、ひたすら渡り歩かなければならない。となると、人間の母集団が大きければ大きいほど、都合が良いという訳です。

人間の母集団が大きいというのは、要するに都市文明です。実は疫病が流行するのは、古代から、ほぼ例外なく、農耕文明により食糧生産性が高まり、人口が激増した結果、建設され拡大し続けている都市が中心になっています。

人類の都市文明特有とみなされる感染症は、そのすべてが動物から人間のポピュレーション、つまりは、群れに移行したものです。なにしろ、我々が知っている感染症は、その多くが家畜の病気と明確な類縁性を持っているからです。

例えば、麻疹は牛の牛疫と犬のジステンパーのどちらか、あるいは双方と関係があります。天然痘は牛痘、インフルエンザは豚、ペストは家畜ではないですけれども。地中に住む、ネズミとかリスなどの齧歯類(げっしるい)。

だから、中世でペストが流行った時は、ネズミを駆除しようとしたのですが、実際にペストを人間にうつしたのは、ノミでした。ノミは、いわば齧歯類(げっしるい)と人間を橋渡ししたわけです。発症元は、齧歯類(げっしるい)なので。

映画とか漫画とかでは、中世のペストと言えば、ネズミが媒介するシーンばかりですが、実際には、ネズミが発症源であることが判明したのは、かなり後になります。あくまでフィクションですから。それはともかく。黄熱病は猿、狂犬病は実はコウモリです。狂犬病だけど、コウモリなんです。

疫病は、普通は動物の群れの中で生き延びていますが、あまりにも致死率が高いと、ウイルス自体も絶滅してしまうケースもあります。

1891年に、牛疫(ぎゅうえき)がアフリカに侵入した際には、あまりにも致死率が高すぎ、家畜の牛やカモシカなどの野生生物をことごとく死に至らしめ、ウイルス自体も消滅してしまいました。ウイルスの殺傷力があまりにも強すぎると、ウイルス自身も生き延びられない、という事です。もっとも、ほとんどのウイルスは、家畜などの動物と共存し、ごくまれに人間に感染するようになって、疫病と化すわけです。

もう1つのポイント。人間は移動します。これは重要な観点です。
例えば、予防接種の制度が確立する前の19世紀。フランス軍に農村から頑健な若者が招集されると、すぐに感染症にかかってしまい、都市部の虚弱な若者と比べて、異様に死亡率が高かったそうです

死亡率に差が出た理由は簡単で、都市部の若者は、子どもの頃に、既に感染症に感染し、免疫を得ていた。それに対して農村の若者は、免疫がなかったからです。

でも農村出身の若者に感染すると、相手に免疫がないので死んでしまう。となると、ウイルスも生き延びられない。中々難しいものです。

人類の歴史を振り返ると、古代文明の時代から文字として疫病の記録が残されています。例えば、メソポタミア文明の「ギルガメシュ叙事詩」(ギルガメシュじょじし)には、大洪水よりはましな災厄として、疫病の神が訪れることが書かれております。

ギルガメシュとは、紀元前2600年頃の古代メソポタミア文明のシュメールの王様です。彼の英雄譚を記録したのが「ギルガメシュ叙事詩」。紀元前2600年ということは、4600年前ですが、そんな大昔から、人類は疫病に苦しめられていました。

メソポタミアのシュメール文明は、農耕による人口の激増、家畜との共存、そして都市化と。疫病が蔓延する3条件がすべて揃っていたんですから。さらに紀元前2000年頃のエジプトにも、ファラオの威光を、悪疫、つまり悪い疫病、が流行った年の疫病の神と比べた文書が残っています。

もちろん支那でも、古代から疫病が繰り返し流行っています。紀元前13世紀の支配者が、「今年は疫病はありますか?」「死者が出ますか?」と神様に訪ねていたことが、甲骨文字で残っています。

甲骨文字とは、古代中国の殷(いん)の時代から使われてきた、漢字の原型となった文字のことです。我々が使っている漢字も、源を辿ると、甲骨文字です。

殷が滅び、周(しゅう)・春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)・秦(しん)・漢(かん)と中国では、易姓革命(えきせいかくめい)が続くのですが、宋(そう)の時代、これ、趙匡胤(ちょう きょういん)の宋の時代に史書でも疫病の記録が残されるようになりました。つまり歴史書に疫病の記録が残り始めたということですね。

それだけ疫病の蔓延が頻発したということです。

宋の時代の司馬光(しばこう)の「資治通鑑」(しじつがん)は編年体(へんねんたい)、つまりは年月に沿った形で書かれているのですが。疫病がいつ起きたのかについて、詳しく記録されています。さらに、後の清(しん)の時代に編纂された「四庫全書」(しこぜんしょ)にも、疫病の記録が多数あります。

実際に「資治通鑑」と「四庫全書」に基づき、支那における疫病の年表は作られていますが、それによると、最も古いものが、紀元前243年の王国全土の疫病蔓延というものです。
まだ、戦国時代で、秦(しん)による統一王朝が生まれる前ですね。

秦(しん)王、政(せい)の時代、後の始皇帝が秦王に即位してから3年後に、秦国全土で疫病が蔓延した、とあります。もちろん殷(いん)の時代の甲骨文字(こうこつもじ)による記録からも明らかな通り、中国の疫病は数千年前から発生していました。あくまで史書に残っているのが、秦王政の時代以降ということです。

年表によると、秦王政の時代から、20世紀の初頭まで、およそ2100年間に、支那のいずこかの地域で疫病が流行した回数は、およそ300回。全国的に蔓延する疫病は、少なかったようですが、7年に1度くらいは、支那大陸のどこかで、必ず疫病が発生していたということです。

疫病は人口を激減させ、歴史を大きく変えてしまいます。

例えば、古代ギリシャですが、古代ギリシャでは、各都市ポリスが、それぞれ独立国として攻防を繰り返していました。ペロポネソス戦争の戦記を残したトゥキディディスが紀元前430年の疫病について克明に記録を残しています。

ペロポネソス戦争とは、紀元前431年から、およそ30年も続いたアテネを盟主とするデロス同盟と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間で起きた全ギリシャを巻き込んだ戦争です。ちなみに、デロスとは、古代ギリシャの聖地、デロス島、ペロポネソスは、スパルタがあった半島から来ています。今も、そのままの名前です。地名の9割は1000年は変わらないと言われていますので。

もちろん現在のギリシャ共和国と古代ギリシャは、別の国です。国家としては連続していないのですが、古代ギリシャは、日本建国よりも数百年も昔に栄えた文明です。

さて、トゥキディディスによると、紀元前430年から翌年にかけ、アテネを疫病が襲い、陸軍の4分の1が失われてしまいました。そうなると、戦うどころではないので、アテネはペロポネソス戦争に敗れてしまいます。

疫病は、まずはアテネの港であるピレウスに上陸し、アテネ市をはじめ、人口の多い都市を襲っていったということです。

「最初、エジプトのかなたなるエチオピアの各地に発生し、そこからエジプトとリビアとペルシャの大部分の地方へと下りてきたということだ。その後、突如として、アテナイに降りかかり、最初ピレウスの住民を襲ったが、やがてアテナイ市部に広がり、死者の数は、ますます増えていった。」とトゥキディディスは記しています。

ギリシャから見ると、地中海を越えて、エジプトのそのまた向こうのエチオピアが発生源という事ですが、当時のアテネは、ピレウスを経由して地中海の沿岸都市と密接な関係を保っていましたので、少なくとも疫病が地中海を渡ってきたことは確かなようです。

アテネは、市民生活も疫病で大きな打撃を受け、その後は、古代ギリシャで最も繁栄したポリスだったにもかかわらず、ペロポネソス戦争での奮戦むなしく、スパルタの前に膝を屈することになりました。

疫病が襲わなければ、歴史が変わっていたかもしれない、という点では、古代ローマも同じです。

古代ローマの帝政初期の歴史家であるリウィウスは、紀元前387年以降、少なくとも11回の疫病に見舞われたと書いています。西暦に入って以降も、ローマでは中国なみに疫病が頻発し、特に西暦165年の疫病は、帝国全域に広がり、甚大な被害をもたらしました。メソポタミアでの軍事行動から帰還したローマ軍の軍隊によって、地中海全域に広まってしまったからでした。

この当時は、五賢帝(ごけんてい)最後の1人、哲人皇帝と言われたマルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代です。当時のローマ帝国は、現在のスペインから地中海全域、黒海周辺、さらにカスピ海の西部からメソポタミアに至るまで、広大な地域に広がっていました。

しかもこの時の疫病は致死率が高く、パンデミックが起きた地域では、住民の4分の1から3分の1が亡くなってしまいました。

ローマ帝国の領土が広大で、現代風に言えば、グローバルに広がっており、国境とか関係なしで軍隊が移動できたため、疫病が大きく広がってしまったということですね。

ローマ帝国の拡大により、現在のスペイン・ポルトガルから、アルメニア・イラクに至る地域まで国境がなくなってしまった。結果的に、かつてならば国境で、ある程度は食い止められていた疫病が、地中海世界を覆いつくす事態になってしまったという事です。

五賢帝の最後の皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代は、一応、ローマ帝国最盛期ということにはなっているのですが、疫病の蔓延により、その後は人口が減少していくことになります。

広大な地域を支配したローマ帝国で、人口が伸び悩むということになると、外的な収斂(しゅうれん)を招くことになります。ローマ帝国は次第に人が住まない地域が増えていき、その隙間を埋めるように、国境の向こう側からやってきたのが、ゲルマン人というわけです。

未知の疫病というのは、冗談抜きに民族浄化なみの威力を発揮します。何しろ、誰も抗体を持っていないわけですから、住民をことごとく死に至らしめる危険があります。

ローマ帝国は、領土が広大で軍隊をはじめ、大勢の人が集まり、動き回り。しかも大都市がいくつもある。疫病が流行する上では、最高の条件が揃っていました。

しかもローマは、インフラ関連の技術は、めちゃくちゃに進化していたんですけれども、農業生産性は伸びませんでした。元々それほど人口が激増する環境ではなかったところに、疫病が繰り返し蔓延し、人口は停滞せざるを得ませんでした。そこにドナウ川を渡ってきたゴート人を皮切りに、ゲルマン民族の大移動があり、しかも当時のローマ帝国は、ゲルマン人を傭兵として採用したりもしました。要するに移民です。都市化した文明で、しかも国境が引き下げられたというか、ローマ帝国のせいでなくなってしまい、しかも軍隊や移民がグルグルと動き回り、疫病が蔓延した。色々と考えさせられます。

西ローマ帝国が滅亡して以降も、コンスタンティノープル、今のイスタンブールを中心に、東ローマ帝国が栄えていました。東ローマ帝国の絶頂期は、西暦527年に即位したユスティニアヌス1世の時代ですが。ユスティニアヌス帝は、強力な軍隊を西に繰り出し、旧西ローマ帝国領をゲルマン人から奪取し、地中海を支配する、いにしえのローマ帝国を復興させようとしたんです。ところが失敗しました。

またもや疫病です。西暦542年から543年にかけ、東ローマ帝国で疫病が流行し、人口減少や財政悪化を招き、最終的に旧西ローマ帝国領復興は、失敗に終わりました。ユスティニアヌス帝時代の疫病が、どうやらペストだったと予想されています。

ちなみに、古代ローマ帝国では、繰り返し疫病が流行したのですが、キリスト教を信じる人々にとっては、福音でした。彼らの教義では、疫病が猛威をふるっている中において、病人を率先して看護することが善行だったのです。結果的に、当時、キリスト教が爆発的に信者を獲得することになりました。キリスト教徒の著述家達は、彼らにとっては異教徒の人々が病人を見捨てて逃げ出す最中(さなか)であっても、キリスト教徒がいかに互いに助け合ったかという記録を誇らしげに残しています。

ペストに限りませんが、ユーラシアの特定の帝国が巨大になればなるほど、感染範囲が拡大します。例えば、チンギス・ハンの征服国を皮切りに、大モンゴル帝国は、最終的にはユーラシア・ステップと周辺国を、ことごとく征服しました。何しろ、東は日本、西はポーランド、南はベトナムやインドと国境を接していたわけですから、その広さは、半端ありません。大モンゴル帝国の征服により、人類は、かつてない広さの国境がない世界を持つことになりました。国境がなくなり、人々が自由に行き交うようになったという事は、当然疫病も移動していったという事でもあります。

ユーラシアのほぼ全域で、人々が東へ西へと動き回ったため、結果的に、ヒマラヤ近辺のペスト菌が、厳密にはペスト菌を宿したげっ歯類が、ヨーロッパに至ったという事です。

ペストは東ローマ帝国の時代には、既にヨーロッパで蔓延していたのですが、不思議なことに、史実に残るほど、ペストが猛威をふるう14世紀に至るまでの500年もの間、一時的にペストはヨーロッパから姿を消していました。それがユーラシア全域で、再びパンデミックを引き起こすのですが、まずは中国から感染が始まりました。

ペストの発祥地は、今で言うと、雲南省からミャンマーの辺りで、かなり奥地にモンゴル軍が遠征し、ペスト菌を草原地帯に持ち帰り。そこからげっ歯類と隊商、つまりは帝国各地の交易商人達により、ユーラシア全域に運ばれてしまったと思われます。

軍隊は、人が常に密集しており。しかも長距離を移動するため、感染することで生き延びようとするウイルスや菌にとっては、天国のようなものです。しかも当時は、何しろ大モンゴル帝国の時代であるため、交易商人達がユーラシア中を動き回っていました。ペスト菌を持つ「げっ歯類」も、商人達とともに移動していきました。

長距離を移動する交易商人は、大量の食料を運ぶので、食料が入った箱などに入り込んだネズミ、げっ歯類が実はペスト菌とともにあったわけです。

1351年に中国では、モンゴル帝国への反乱、紅巾(こうきん)の乱が勃発するのですが。朱元璋(しゅ・げんしょう)が、最終的には明(みん)帝国を建国し、皇帝として即位します。しかも、当時、支那大陸全域でペストが流行してしまったようです。

内乱と疫病が同時に襲ってきたので大変でした。元(げん)帝国に滅ぼされる前の、宋(そう)の時代の中国の人口は、1億2,000万人だったと推定されているのですが、朱元璋が皇帝の座についた頃には、6,500万人に激減してしまっていました。たとえ、モンゴル帝国が暴虐だったとしても、人口が半減するなど、考えられません。疫病、特にペストの流行の影響で間違いないと思われます。

支那を襲ったのと同じペスト菌は、1347年には、ヨーロッパに辿り着きました。ペストは、げっ歯類からノミを経由して、人にうつるのですが。とにかく致死率がハンパない。何しろ、ペストは抗生物質が誕生する前は、低めに見積もっても、感染者の60パーセントから70パーセントが亡くなってしまいました。

しかもペストは、最初の大流行以降も、繰り返しヨーロッパを襲いました。例えば、人口統計が最も信頼できるヴェネツィア共和国の記録によると、1575年から77年、さらには、1630年から31年と、2度のペスト大流行があったのですが、いずれも人口の3分の1以上が命を落としました。

ペストをはじめとする疫病の影響で、その後のヨーロッパは人口が伸び悩むことになりました。結果的に、ヨーロッパ、特に西欧諸国では、合併症を防ぐために、毛織物の衣服への需要が激増しました。

ペストの流行で、人々は風邪をひくことすら恐れ、厚着するようになり、健康や公衆衛生に関する意識も大きく変わりました。

また、ペストにより労働者が減った結果、当たり前の話として、実質賃金が上昇していき、人々は豊かになっていきました。実質賃金の上昇の結果、人々は比較的高価だった毛織物製品を身に付ける機会を増やし、さらにペストをはじめとする疫病流行を経て、欧州では中央集権が一気に進むことになりました。いつの時代でも、疫病を防止する、あるいは、蔓延を防ぐため、には、国家権力を行使する以外に、他に方法がないためです。

蔓延する疫病に対しては、1人1人では立ち向かえないため、結果的に国家の権力が強化されざるを得ないという話です。「疫病は歴史を変える」という事です。国家制度自体変わってしまうわけですから。

16世紀以降、西欧諸国、つまりは、フランス・イギリス・スペイン・ポルトガル、それにドイツ系のプロイセンやオーストリアでは、国王という君主が、絶対的な支配力を持つ主権国家となっていきます。ペストをはじめとする疫病の度重なる大流行の結果でもあると言っても過言ではないと思われます。

しかも、スペインのレコンキスタ以降は、疫病がアメリカ大陸に持ち込まれ、先住民の方々に、とてつもない被害を与える事となりました。

確かに、疫病によって、人類の歴史は大きく変わってしまった訳です。

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