スパイス・ロード



そもそもコロンブスがなぜスペインのパロス港を出港し、大西洋の航海に乗り出したのか、ご存知でしょうか?

「黄金の国ジパングへの憧れがあったためです。アメリカ大陸に到達したコロンブスは、ジパングに着いたものと勘違いをしてしまったんです。」などと、答える方も少なくないのでしょう。

コロンブスの第1回航海日誌をラス・カサス神父が要約したものには、「両陛下(カトリック両王)にインディアの血並びに我らのロマンス語で諸王の王を意味するグラン・カンと呼ぶ君主について、ご報告申し上げました」とあります。ちなみにロマンス語とは、ラテン語のことですけど。さらに、この私、クリストバル・コロンをインディアスの先に述べた地方へ派せられと書かれています。

インディア、つまりインドとカーンの地の事。つまりは、インドとモンゴル帝国に行くことをカトリック両王に命じられたわけです。

そもそも、コロンブスが本当にジパングに憧れ、サン・サルバドル島を発見した際に、日本に辿り着いたのだと思ったとしたら、その土地をインディアスと呼んだり、現地の住民について、スペイン語ではインド人という意味である、インディオと名づけたりはしないでしょう。先住民はジャポネスと呼ばれてませんし。

ちなみにコロンブスの航海日誌を読むと、サン・サルバドル島に着いた後に、黄金と絡めて、ツィパング、つまりジパングを探し始めたようです。

コロンブスがインディアス、今の西インド諸島、で、金(きん)を得たのは事実。というわけで、黄金の国ジパングの伝説と金(きん)の発見がごっちゃになり、いつの間にかコロンブスは、ジパングを初めから目指していたという話が創作され広まったのだと思います。

主たる目的は、あくまでスパイス(香辛料)でした。コロンブスの艦隊が着いた西インド諸島でも、香料のサンプルを収集しています。となると、主たる目的地は、当然ながらインドという話になります。

以前の動画に、中世欧州の人々が、食生活の都合でスパイスを必要としていた、とありましたが、欧州では、コショウ1粒が黄金1粒に匹敵したという話は本当なのでしょうか?

そこまでは高くありません。例えば13世紀のフランスでは、金(きん)1グラムとコショウ70グラムが等価でした。つまり同じ価値でした。もっとも、インドでは、金1グラムで6キロのコショウが買えたので、確かに中世欧州でコショウが贅沢品だったのは、間違いありませんが。

6キロは6,000グラムなので、6,000÷70だと、80倍以上ですね。欧州では、インドと比較すると、コショウが80倍の価格で売れた。これは確かにアフリカ周りや大西洋越えでインドに向かうのも、当然ですね。

インドとフランスで、金(きん)の購買力が等しかったわけではないでしょうが、いずれにせよ、インドからスパイスを欧州に持ち込めば、数十倍の価格で売れたのは、間違いないでしょう。しかもサフランやシナモンは、コショウよりも高かったそうです。

シナモンは、今でもスパイスの王様とか呼ばれていますから。

ちなみに、スパイスは、かなり昔から日本にも入って来ていました。

奈良の正倉院(しょうそういん)は、西暦756年に崩御された聖武(しょうむ)天皇の遺愛品や文献など7世紀から8世紀の宝物(ほうもつ)が収められているのですが、その中に、コショウやシナモンなどのスパイスがありますから。

1000年以上も昔のスパイスが保管されているなんて、さすが日本、という感じです。

そもそも、2000年以上も前から、コショウはヨーロッパに輸出されていました。古代ギリシャで、医学の父とされるヒポクラテスは、コショウと蜂蜜と酢を混合すると、婦人病によく効くと書いていますから。ヒポクラテスは、紀元前4世紀の人物ですが。その後、古代ローマでもカルダモンやシナモンが料理の調味料や薬として使われていたようです。

日本の場合は、食生活が魚などの海産物中心なので、スパイスはそれほど重要ではなかったのに対し、肉を食べる欧州では、スパイスは必需品中の必需品だったという訳です。

というわけで、ユーラシアでは、大昔からインドなどで獲れるスパイスが、東から支那の商人によって、西からイスラムの商人によって、遠い消費地に運ばれていました。

アジアのスパイスが西に運ばれ、今のシリアを中心とした地域、レパント、でヴェネツィア商人に引き渡され、欧州各地に販売されていきました。この海路を中心とした交易路のことをスパイスロードと呼びます。

シルクロードが絹の道、ユーラシア・ステップが草原の道、ユーラシアの東西交易では、3つ目の道として、海の道である香料の道があったという事です。

そして、以前の動画でも説明したオスマン帝国が勃興すると、アジアとヨーロッパを結ぶスパイスロードが、事実上遮断されてしまいました。

オスマン帝国は、トルコ共和国があるアナトリア半島を中心に、メソポタミアからコーカサス、クリミア半島、アラビア半島、エジプト、北アフリカ。そしてバルカン半島から東ヨーロッパと。広大な地域を支配していた多民族国家でした。地中海の覇権を狙うオスマン帝国は、それまでの地中海交易を長年支配していたヴェネツィア共和国やレコンキスタを完成させようとしていたスペインと激しく対立しました。

代表的な戦いが、1571年にギリシャのレパントでスペイン・ヴェネツィア連合艦隊とトルコ艦隊が激突したレパントの海戦ですが。いずれにせよ、オスマン帝国の強国化は、アジアのスパイスが欧州に入る道を閉ざしてしまいました。

というわけで、レコンキスタで勢いに乗っていたイベリア半島の国々が、相次いでアジアのスパイス産出国との間に、直接の交易ルートを開拓し始めたわけです。

以前の動画では、ポルトガルのバルトロメウ・ディアスが1488年にアフリカの喜望峰を確認し、リスボンに帰還した所までは解説しました。ちなみに、喜望峰のネーミングですが。ディアスは、嵐の航海の末に辿り着いたので、嵐の岬と名づけたのですが。リスボンで報告を受けたジョアン2世が、インドへの道が確認されたことを喜び、喜望峰という名前に変更しました。

バルトロメウ・ディアスは、同じくポルトガル人航海者である、ヴァスコ・ダ・ガマが1497年にインドに向かった際に、ディアスは水先案内人としてアフリカの西部までは同行しています。とはいえ、最終目的地には辿り着いていません。

1497年ということは、コロンブスがアメリカ大陸に到達した以降、という事になります。

コロンブスの新大陸到達は、ポルトガル王室にショックを与えました。20世紀に宇宙開発で先行していたはずのアメリカが、1950年にソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げた報告を受けてショックを受けたのと同じようなものでしょう。というわけで、当時のポルトガル国王マヌエル1世は、国王親書を持たせたヴァスコ・ダ・ガマに4隻の艦隊を与え、南へと送り出しました。

出発したのが、1497年の7月で、インドに到着したのが、翌1498年の5月。10ヶ月以上もかかりました。コロンブスのサン・サルバドル島到達が、出港から2ヶ月と少しだったので、確かに遠い道のりでした。

ガマの艦隊は、元々スパイスロードの重要交易拠点であったカリカットに到着したのですが、インドの西南の港で、現在はコーリコードと呼ばれている地です。ベンガル湾の大都市カルカッタ。今のコルカタとは違いますので。

ちなみに、カリカットの地で、ガマはインド産の綿製品を目撃し、大変驚きました。その後、カリカットからインド産綿布、綿製品が欧州に輸出されるようになり、キャラコと呼ばれ、欧州で大ブームを引き起こすようになります。

当時の欧州では、身にまとう物は、毛織物が中心だったのですが、軽くて風通しが良く、丈夫で、しかも染めやすい綿製品は、出回っていなかったんです。このキャラコが、後に世界の歴史を変えてしまうほどに、重大な役割を果たすのですが。それは、また別の機会に。

さて、スパイスのメインの生産地であるインドとの交易の確立に成功し、リスボンに戻ったガマは、大歓迎を受けました。その後、ガマは何度もインドに航海し、各地に商館を立て、軍事力を背景に、交易を強制する欧州のスパイス交易のスタイルを確立しました。

ガマのスパイス交易手法が、その後の欧州諸国の支配スタイルになり、いわゆる帝国主義へと発展していきました。といっても、帝国主義とグローバリズムは同じ意味なんですけど。
覇権国が、条約を締結させて、軍事力を背景に、そのルールに従わせる、というのは、現在までずっと行われている歴史でもあります。

ガマの第1回航海時点で、スパイスロードの西側を支配していたイスラム教徒と対立し、ドンパチが始まりました。

第2回航海では、ガマの艦隊は、マダガスカル島の向かいのアフリカ、モザンビークのキルワ王国の市街地を砲撃し、王国をポルトガルの朝貢国、つまり属国にしてしまいました。

再びインドのカリカットに着いたガマの艦隊は、イスラム商人の交易船に対し、海上封鎖を行い、カリカットの港に向かっていたイスラム商船を捉え、財宝を奪った上に、火をかけ、婦女子50人を含む300人を皆殺しにしてしまいました。

ユーラシア大陸に住む人々は残酷でしたから。別にヨーロッパ人だけが、特別に残酷だったという話ではなく。インド商人やイスラム商人、中国商人も自分の利益になるならば、平気で人を殺しています。力の時代というわけです。その後も、欧州の船乗り達は、スパイスロードに位置するアジア諸国に対し、当初は交易と友好関係を持ちかけ、条件が合わない場合は、即座に戦争。支配下においた王国に商館を設置し、競合のイスラム交易船を撃破し、スパイスビジネスの独占を図りました。

当時欧州に入っていたスパイスは、別にインド産には限らず、シナモンの産地だったセイロン島。それに香料諸島のものが重視されていました。

香料諸島とは、現在のインドネシアのモルッカ諸島やバンダ諸島、ティモールにかけた島々です。当時、マレーシアのマラッカに拠点を構えていたポルトガル人の薬商人、トメピレスは、「神はティモールを白檀(ビャクダン)のために、バンダをナツメグのために。そしてモルッカ諸島を丁子(チョウジ)のために作りたもうた」との言葉を残しています。

ちなみに、マラッカは、マレー半島西部のムラカのことで。ポルトガルのスパイス交易の中心的な拠点になりました。マレーシアとインドネシアのスマトラ島の間の海峡をマラッカ海峡と呼ぶのは、もちろんマラッカから来ています。

もっとも、ポルトガルの天下は長く続かず、スパイスがもたらす金(かね)目当てで、ヨーロッパから次々にライバルがやってくることになりました。

ポルトガルはイスラム商人のみならず、同じ欧州の勢力とも競合することになったわけです。

まず最初にやってきたのが、スペインです。当たり前と言えば当たり前ですが。アフリカ周りの航路をポルトガルに先行されたスペインは、西周り。つまりは、アメリカ大陸の南端を迂回し、太平洋を横断するルートでのインドや香料諸島への到達を狙いました。

ビジネスですね。金(かね)のためであれば、大西洋と太平洋を横断するという危険を冒してでも、スパイスの源(みなもと)へと辿り着く。つまり、ヨーロッパからアメリカ大陸東海岸まで航海し、そのまま南下して、南アメリカ大陸の南端を周り、世界最大の太平洋を横断してまでして、アジアを目指したわけですから。真似をしたいとは、まったく思いませんが。その根性だけは見上げたものですね。

1519年。スペイン王の信任を得たポルトガル人のフェルディナンド・マゼランが、スペイン船5隻の艦隊を率い、セビリア港を出港いたしました。目的は、もちろん西周りでアジアに辿り着く海路を探すためです。

マゼランは実にグローバリズム的ですね。「国境に拘る時代は過ぎました。」という事でしょう。当時、既にポルトガルは、インドや香料諸島との交易で、凄い利益を上げていましたから。となると、焦ったスペイン側は、「ライバル国の船乗りであっても、役に立つなら引き抜いて使おう。」と思っても不思議な事ではありませんでした。ガマのインド到達以降、スペイン王国がインドへの道を開拓するために、血眼(ちまなこ)になっていたのは、当時の欧州人なら誰でも知っていましたので、マザランは上手く転職した、という事です。

ちなみに、当時のスペインとポルトガルは、世界分割においてもライバルとして争っていました。勝手な話ですが、コロンブスがアメリカ大陸に到達したことを受け、スペインがローマ教皇に計らい、ちなみに、当時の教皇、アレクサンデル6世は、スペイン人だったんですが、アメリカ大陸の、ほぼすべてをスペイン領とする布告を教皇に出させました。

ローマ法王には、何の権利もないにもかかわらず、です。もちろん。とはいえ、アレクサンデル6世の布告に怒り狂ったのがポルトガルでした。もちろん怒った理由は、スペインが勝手に世界を分割したためではなくて、自国がアメリカ大陸に領土を持つことが不可能になってしまったためです。

というわけで、スペインとポルトガルの間で交渉が持たれ、境界線が少し西にずれて、現在のブラジル東部は、ポルトガル領とする形で、線引きがなされました。

それは、南アメリカ大陸でブラジルだけが、公用語がポルトガル語なのを見れば明らかですね。1494年、ブラジルをポルトガル領とし、残りのアメリカ大陸すべてをスペイン領とするトルデシリャス条約が締結されましたので。

地図上に線を引き、現地の住民の伝統や文化や歴史を無視して、勝手に自分の国の領土に組み入れてしまう。ヨーロッパ人の身勝手極まりない行為ですね。

さて、ブラジルを除くアメリカ大陸を自国の領土と決めてしまったスペインは、さらに西に進み、アジアへの海路を開拓すべく、1519年にマゼランを送り出しました。マゼランが率いる艦隊は、アメリカ大陸の東海岸を南下し、後に彼の名が付くことになるマゼラン海峡を抜け、太平洋に出ました。そして今のチリから太平洋を西に向かい、フィリピンに到達しました。

ところが、なぜかマゼランは、フィリピンで強引にキリスト教の布教活動を行い、現地の住民の反感を買い、戦闘が繰り返されることになってしまいました。結局、マゼランを含む大勢のスペイン人乗組員が戦死し、生き残りが、香料諸島を目指して、なんとか2隻が辿り着きました。

最終的に香料諸島を出発することができたのは、フアン・セバスティアン・エルカーノ率いる1隻のみで、1522年の9月に、なんとかスペインに帰国を果たしました。出発時に、マゼランの艦隊は、270人が乗り込んでいたのですが、世界一周を果たすことができたのは、18人だけでした。乗組員の9割以上が、戻ってこれない壮絶な航海でした。

エルカーノ達の世界一周成功で、地球が丸いことが確認され、スペインは次々に西周りで香料諸島を目指す船を送り出しますが、壮絶な状況が続くこともあって、スペインは、結局、西周りルートを放棄することになりました。

ところで、トルデシリャス条約で、アメリカ大陸を横切るように線が引かれて、西側がスペイン領、東側がポルトガル領とされたのですが、地球は丸いから、アメリカから西へスペイン領、実際には領土ではないんでしょうけど、スペイン領を延ばしていくと、ぐるりと回って、ポルトガルの勢力圏に行き着いてしまいます。

それが当時のスペイン・ポルトガル間でも問題視されました。特に香料諸島を支配下に置きつつあったポルトガルにとって、トルデシリャス条約の線より西がスペイン領ということになると、香料諸島まで含まれてしまうことになり、絶対に看過できない問題でした。

そこで、最終的には、香料諸島の東に2つ目の線が引かれ、西側をポルトガル領、東側をスペイン領とする「サラゴサ条約」が1529年に締結されました。ちなみに、サラゴサ条約のラインは、東経142度なので、日本列島は、北海道を南北に横切る線が引かれ、西側がポルトガル領、東側がスペイン領になってしまいます。もっとも、サラゴサ条約締結時点では、ヨーロッパの人々は、未だに1人も日本列島には辿り着いていなかったんですけどね。日本をヨーロッパ人が訪れたのは、1543年。サラゴサ条約から14年後のことでした。
なので、種子島にポルトガル人がやって来て、平戸にスペイン人がやって来たわけです。

香料諸島から西が領土であると確定したポルトガルは、次第に北へと向かい始めます。清(しん)のマカオの主要圏を獲得。マニラにも拠点を開いて、ついに漂流者が種子島に辿り着きました。使節とか交易商人ではなく、漂流者でした。

しかも、1543年というのは日本側の記録であり、ポルトガル側では、1542年となっております。

1563年に書かれたアントニオ・ガルヴァオの新旧世界発見記によると、1542年にシャム王国。つまり今のタイですけど。シャム王国のドドラに停泊していたポルトガル船から、3名のポルトガル人船乗りが脱走したとあり、彼らはジャンク船で中国に向かったものの、嵐に巻き込まれた結果、種子島に漂着したと書かれています。

1542年でも1543年でも、どちらでも良いのですが、とにかくその時期にポルトガル人が日本に辿り着いたのは事実。日本の歴史の教科書では、単純に「ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた」としか書かれませんが。その裏には、スパイスから上がるビジネスの利益を巡る、スペインとポルトガルの闘争があったという話なのです。

当時のイベリア半島の2つの国は、外国を支配下に置くために、キリスト教を利用しました。そもそも、イサベル1世とフェルナンド2世が、カトリック両王と呼ばれているのは、ローマ教皇のアレクサンデル6世が、スペインの新大陸におけるカトリックの布教を評価して、カトリック王の名を授けたためなんですから。。

マゼランもフィリピンでキリスト教の布教活動を勧め、結果的に反発を買って殺されてしまったんですが、なぜ、わざわざ遠い異国の地でキリスト教を布教しようとしたのでしょうか。

それは、いわゆるソフト・パワーというやつです。もちろん外国を支配する際には、軍事力を行使することもありますが、加えて住民をキリスト教徒・カトリックにしてしまえば、自分が信じる宗教の中心地である欧州、特にローマ教会には逆らいにくくなりますので。

宗教で外国の住民の心を縛ってしまい、反抗心を奪い取り、支配を容易にするという話ですね。もし、キリシタンを禁止しなかったら、日本も同じ目にあっていたかも、と思うと、徳川幕府は偉かったです。

ちなみに、ポルトガル人が種子島に着いたのが、1543年とすると、わずか6年後の1549年には、イエズス会のスペイン人、カトリック宣教師であるフランシスコ・ザビエルが日本を訪れ、キリスト教の布教活動を始めました。

ザビエルはスペイン人だったのですが、ポルトガル王ジョアン3世の依頼を受け、既にポルトガルの香料貿易の拠点が作られていたインドのゴアに拠点を置き、インド各地、マラッカ、香料諸島でキリスト教の布教を進めていました。

スパイスロードを支配し、欧州の香料ビジネスで大儲けするため、命がけでアジアに航海し、さらにはキリスト教宣教師までをも送り込んで植民地化を進める。グローバル化というのはこういうものです。

もっとも、一時はスパイスロードを支配し、スペインをサラゴサ条約の東に押し込めたポルトガルですが、その栄華は、それほど長くは続きませんでした。同じイベリア半島の国であるスペインよりも、はるかに手強い敵が、イベリア勢力からスパイス交易の権益を奪い取るべく、スパイスロードの戦いに参戦してきたためです。

スペインからの独立戦争を戦っていたネーデルラント連邦共和国、つまりは、オランダです。
続いて、ネーデルラントの成功モデルを丸パクリし、やがて次なる覇権国へと成長するイングランドです。ネーデルラントとイングランドは、スペインやポルトガルとは異なり、東インド会社という会社形態でスパイスロードに新規参入して来ました。

いわゆる、大航海時代とは、夢とロマンを求めて旅立った船乗り達の物語の時代というものではなく、スパイスの利益を巡る血みどろで壮絶な争いの時代だったわけです。

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