戦時内閣の総理大臣・東條英機 〜本当にヒトラーに並ぶ「独裁者」だったのか? 世界史を変えた男の人生



大東亜戦争開戦時の総理大臣だった東條英機(とうじょうひでき)は東京裁判で死刑になった人物です。なので、大東亜戦争では、「最も悪い奴」と見なされていて、ヒトラー・ムッソリーニなどと並べられています。

特に戦後直後のアメリカなどでは、「東條」というと、日本の独裁者であり、戦争に駆り立てた軍国主義者と見なされていました。それが戦後の日本人にも植え付けられていて、「東條英機は大悪者なので、靖国神社に祀られる資格がはない」と、中国、韓国政府が言っているような風に思っている人も少なくありません。

「ああいう戦犯になったような人達は、分祀するなり何なりするなり、靖国神社から取り去って、中国からの非難を避けるべきである」というような意見もよく目にします。

ところで、東條英機とは、どういう人だったのでしょうか?

東條英機の父親も、非常に秀才の陸軍軍人でした。日本に来たドイツの参謀の軍人、メッケル少佐も、非常に期待していた優秀な軍人でした。ただ、東條英機の父親は、中将くらいで出世が止まってしまいます。その理由が、戦法がメッケル式だったから、と言われております。非常に合理的で、自軍の被害が大きくなりそうな無茶な攻撃をしなかったものですから、出世コースにいたものの、本当の出世はしなかったというような人です。

息子の東條英機もまた、軍人の道を歩みました。

蒙古と満州辺りの戦場で、ある事件が起こり、その時、東條英機は、東條兵団という軍団を指揮して、極めて短時間に使命を達成いたしました。その時、急に寒くなりました。普通なら、たくさんのしもやけ患者が出ても不思議ではないのですが、東條英機は、ただちに手配して、1人の凍傷患者も出さなかったため、当時の軍人達からは、名将と呼ばれるようになりました。当時の軍隊では、医者の進路だけ重んじられて、しばしばそういう場合の兵隊さん達への被害は、無視される傾向がありましたが、東條英機は、非常に兵隊さんを大切にしました。
 
その後、東條英機は、第二次近衛(このえ)内閣の陸軍大臣として入閣します。その前まで、二・二六(にぃにぃろく)事件とか、ゴタゴタあり、どうも軍の中の統制が利かないため、期待されて登用された人物でした。

ところが東條英機という人は、本当に真面目に之繞(しんにゅう)をかけたような人、真面目の権化みたいな人で、いかなる場合でも、丹念に、人の話でも何でもメモを取り、それをよく整理し、記憶していた、大変有能な軍官僚でありました。それで軍隊の中でも、みんな東條に任せると安心だという感じもあったんでしょう。それで、当時の支那事変も、中々混迷しておるので、陸軍を押さえられる人ということで、東條英機が入閣することになりました。

ところが、東條は、どんどん具合が悪くなっていきます。東條英機に責任があると言えば、三国軍事同盟をやった近衛内閣にいたということでしょう。近衛文麿(このえ・ふみまろ)の責任が支那事変では大きいですから。

支那事変が起こる前に、盧溝橋事件がありました。盧溝橋で話はついたりするけども、必ずまた何か起こるという、変な事件でした。当時の大本営の作戦部長であった石原莞爾(いしわら・かんじ)は、「絶対に支那と、大陸で戦ってはいけない。日本陸軍の本当の敵は、ソ連なので、そんな所でエネルギーを使っている暇はない」と考えていましたから、日本が侵略戦争を起こすということは考えられませんでした。当時は「考える」ですが、今では、あれは中国共産軍が挑発したんだということが分かっていて、毛沢東自身が認めていますから。

その後、それが治まらずに、だんだん拡大していきました。本格的な支那事変の始まりは「第二次上海事変」「西安事件(せいあんじけん)」などを経て、国民党政府と、支那事変という本格的な戦闘へと繋がっていきます。

そして、1937年12月には、中華民国の首都南京を占領。その時も、参謀本部は、絶対に戦争をやめると言っていたのですが、どうにもやめさせない勢力が近衛総理を動かしたようでした。現在の財政破綻論が大ウソだと安倍総理もわかっているのに、何も出来ないのと同じ事でしょう。

当時、近衛総理の周囲には、左翼が固まっておりました。といっても、共産主義者ではありません。共産主義者は、皇室廃止論者ですから。その頃は、皇室廃止などと叫ぶ人は、本物の共産党員しかいませんでした。この頃、共産党員は、日本にはほとんどいない状況でした。そういった人達は、みんな悔い改めたか、あるいは網走刑務所にいたわけです。

ただ、社会主義者は、いっぱい、いました。この人達が戦争か事変を止めさせませんでした。支那事変が起こって分かったことは、戦争さえやっていれば、いくらでも社会主義的な法律が通るということだったからです。それで、どんどん、事変を終息させる方向ではなくて、どうせ負けない戦争という形を取っていれば、日本の中では、どんな社会主義改革でも通る。

例えば、地代家賃統制法という、「不動産には意味がないよ」というような法律まで通ってしまう。それがだんだん産業でも何でも、配給制の方にジワジワと行く。本当の社会主義体制ができる。

これで革命も起こさないで、社会主義の社会ができるんだというような人達が、近衛総理の周囲に固まっていたわけです。それで、これは戦争にも都合が良いし、戦争だと言えば、日本人は何でも言うことを聞くといったような感じでした。

なので、東條が大臣になった時には、そういう軌道の上を日本が驀進していたわけです。

東條は、軍人としては、強行派で、当時の支那というものをよく知っており、適当な妥協策をやったってダメだということも、よく知っていたようでした。そのうち、どうしてもアメリカとの交渉も上手くいかなくなっていきました。アメリカが石油などを売ってくれなくなり、本当に緊急問題となり、戦争せざる状態に追い込まれていきました。東條が首相になった時には、戦争するという計画ができあがっていました。
 ところが、東條さんが首相になってみますと、当時の昭和天皇は、絶対平和を望んでおられるということが分かり、東條は、ただちに本気で平和を求める工作をし出しました。が、ルーズベルト大統領は、突如日本が絶対に呑めないような条件をガーンと押し付けてきたために、戦争に突入する事になりました。

 アメリカとか他の国でも、東條はヒトラーと並ぶような独裁者だというそういうイメージがあります。ところが、日本には本当の意思決定機関がない、ということに、東條が首相になって初めて気づくことになりました。

それはどういうことかと言うと、盧溝橋と、それから後に、上海で、通州で、西安で、事件が起こりましたが、いずれも向こうから攻めてきたわけですが、戦争が一端起こってしまえば、どんどん発展していくわけで、その時、支那大陸で事が起こると、そこには各国の大使館だとか、外国人が警察・行政を管理した一定の地域である租界があり、日本の思惑だけではどうにもならなかったからです。租界というのは、今では死語となりましたが、当時の支那にはたくさんありました。イギリス租界・フランス租界・日本租界・アメリカ租界などです。植民地なので、支配権がアメリカ租界ならアメリカにあり、イギリス租界ならイギリス租界にあったわけです。そういう所がいっぱいあって、国際問題も非常に複雑でした。

ですから、軍事だけでやっているわけにはいかないので、支那事変が起こりますと、大本営政府懇話会というのが作られます。懇話会というのがおかしいのですが、戦闘が行われている最中(さなか)に、何が懇話会なんでしょうか。この懇話会の出席者は、6人は必ず決まっているわけです。それは首相。総理大臣・外務大臣ですね。それから陸軍大臣・参謀総長・海軍大臣・軍令部総長と。この6人だけが不動のメンバーで。この人達が懇談して、そこで決まったことが日本の方針という訳です。だから懇談会が日本の方針であって。懇談会を支配する人は、いないんですね。俺が決めたっていう人はいないわけ。話し合って、まあまあなあなあで決める人がいない。しかしやっているうちに、いくらなんでも大きな戦争。どんどん戦争が大きくなっているのに、懇話会じゃおかしいんじゃないかということになり、最高連絡会議に。大本営政府連絡会議という名前を使うようになりました。

懇話会よりは、大分良いですね。でも連絡会議でも、大きな決定をしなきゃならないことがあるわけです。例えばアメリカといよいよ戦争をするか、などという。懇話会で決めるのですが、懇話会で決まりましたって言っても、それは日本人も議会も、さすがに承知しませんよ。それで、どういうことかと言いますと、連絡会議で非常に重要なことを決める連絡会議の時は、天皇陛下にご出席願って座っていただく。座っていただく天皇陛下は、別にご意見を述べられるわけでも、何でもない。そこで天皇陛下が座っていらっしゃる所で、連絡会議。連絡会議の結論は、あらかじめ出ているわけですが。それを御前会議(ごぜんかいぎ)と言って、ものすごく箔をつけたわけです。普通、国民もマスコミも、当時は御前会議というと、天皇陛下がご出席の上で決断されたと考えるわけですから、これは動かし難いと考えたわけですが。

今言ったように、実際は連絡会議で、まあまあなあなあの結果です。そうするよりしょうがあるまいな、まあそうだろうなということで、中心の6人が決めますと、会議を開いて。そこに天皇陛下にご出席願う。

それで、東條が首相になる前の御前会議で、アメリカと戦争をするという方針が固まっていたのですが、。それでも東條は、それを元に戻して、もう1度アメリカと平和交渉をしようとします。それまでは、陸軍大臣ですから、天皇陛下のご意見を直接聞く機会は、あまりなかったのかもしれません。天皇陛下が、本当に戦争は避けたいという希望だということが分かったので、御前会議を元に戻して、またやり直して、アメリカと必死の交渉をやるわけです。しかし、アメリカのルーズベルト政権の中に入り込んだソ連のスパイの手によって、ハル・ノートという、とんでもないものが書かれ、それがを突き付けられたために、戦争に突入するわけです。

東條は大日本帝国の首相ではあったけれども、ヒトラーのような、あるいは、ムッソリーニのような、あるいは、アメリカのルーズベルトのような権限はありませんでした。アメリカでルーズベルトというと、空軍だろうが海軍だろうが陸軍だろうが国民だろうが、誰にでも最終的な命令をするわけです。特に戦時中は。

 ところが、当時、ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニ。それからソ連ではスターリン。彼らは全部に命令できます。ところが、東條は、自分が首相になってみても、いわゆる連絡会議でしかものが決まりません。日本は民主主義国家だったため、独裁国家のようなわけにはいかなかったからです。

東條総理は、陸軍大将も兼任していました。これは、陸軍大臣は軍政ですね。戦争の作戦ではない方の軍備だとか何かをやるのは、陸軍大臣。
ところが、実際に作戦を練って軍隊を動かすのは、これは参謀本部でした。で、参謀本部と首相の意見が、しばしば食い違ったり、スムーズに行かなかったりする。これはまずいと。こういうことで東條さんは、参謀総長を兼ねました。これは明治以来初めての事です。陸軍大臣という軍政の面とそれから参謀総長という軍略の面が一緒になった人は、いないわけです。だから当時を独裁なんて言われましたけど。それは陸軍の中だけの話でした。

それから、東條総理は、戦争をするために、色々な物資を自由に動かさなくてはいけない。戦争が最優先ですから。当然、そうしますので、一時は軍事物資のために、軍需大臣(ぐんじゅだいじん)になったこともありますし、短期間ではありましたけども、文部大臣になったこともありました。

とにかく、3つ4つの大臣を兼ねたりしたこともありました。そして、軍略の方の参謀総長も兼ねました。これで東條独裁という声があったわけです。しかし東條総理は、現職の陸軍大臣ですから、日本の当時の制度では、海軍には口出しが出来ません。海軍が何をするかどうかは、海軍に承らなければいけませんでした。海軍にこうしろと命令することは、できないので、連絡会議で希望を述べて、報告を聞くだけでした。なので、海軍の方が首相・陸軍大臣に常にいつも本当のことをすぐに伝えていたかどうかはわかりませんでした。例えばミッドウェー海戦の大敗北なんかも、いつ頃正確に東條総理の耳に入ったか、これはよく分かりません。とにかく、正確にすぐに教えたとは、思われません。だから、東條総理は、日本の当時の情報員からアメリカの情報を取るよりも、海軍からの情報を取る方が難しいと言ってたという、嘘か本当か、そういう話が伝わっているくらい、自分の国の太平洋での戦争情勢が直接把握できませんでした。

そういうのが当時の日本の体制であり、独裁者とは程遠い存在でした。これはアメリカ人には理解できないから、東條ヒトラーと並べるわけです。

政府大本営。大本営と政府の連絡会議も、連絡会議では、どうもパンチが利かないというわけで、最高戦争指導者会議(最高戦争指導会議)になるんですけど。それも結局は、中身は同じ連絡会議です。さらにさかのぼれば、大本営政府懇話会と同じ内容です。

 で、サイパンが落ちた時に、当時大臣の1人であり、安倍晋三総理の祖父で、戦後総理大臣になった岸信介(きしのぶすけ)が、「サイパンを落とされたんじゃ、とても戦争にならない」と言い出しました。日本は国内の天然資源は、極めて限られていて、戦争資源は、全然足りなかったわけです石油も何もない。ゴムもないわけですから。これがサイパンを落とされると、順調に入らなくなる。だから戦争は、この辺でやめなきゃいけないというようなことを言ったわけです。

東條にしてみれば、「始めた戦争を、そう簡単にやめられるか」という気もあったんでしょう。しかし、総理には大臣の首を切ることが出来ませんでした。戦前、日本の総理大臣は、大臣の首を切る権限がありませんでした。だからどうしても切りたい大臣がいるという時は、内閣は総辞職するしかないわけです。内閣が総辞職すれば、自動的にその閣僚は、全部首になりますから。そして、もう1度その大命降下。同じ総理大臣に天皇から組閣せよという命令がくれば、今度は第二次なり第三次なりの内閣で、今度は気に食わない者は大臣になれないわけです。東條総理も、岸大臣一人が反対したために、内閣を解散しました。

こんな弱い立場の戦争指導者というのは、当時の世界には、ありえませんでした。考えてみてくださいね。ルーズベルト。気に食わない○○長官を辞めさせることが、できるかできないか。これは考えてみれば簡単ですね。チャーチルだってできますね。ヒトラーはもちろん。ムッソリーニももちろん。スターリンなんか、殺すこともできる。ところが、日本の総理大臣は、殺すどころか、一人の大臣を辞めさせることも出来ませんでした。それくらい弱い基盤の上で、あの大戦争をしなければならなかったというのは気の毒としか言えません。

そこで東條が首相になった時は、もうアメリカが石油を売ってくれない状態だったので、世界第3位の大海軍を持っていても、石油がなければ動けません。陸軍を持っていても、石油がなければ、これは戦車も走りませんし、ノモンハンで勝った陸軍飛行隊も飛べません。もちろん海軍の飛行機も飛べない。というようなことで、本当にギリギリになった時の首相でした。だから、いよいよ日本がどうしても呑めない条件をアメリカに突き付けられたと。こういうことで戦争を決断するわけです。

天皇陛下は、もちろん非常に平和主義者で、最後まで戦争を避けたいという希望でありました。だから東條総理も、最後まで努力したのですが、その努力は無駄になります。真面目な努力をして来た東條総理と違って、それまでの人達は、案外真面目でもなかったからです。天皇の希望に対して。うやうやしく承りながら、本気ではなかった。しかし東條というのは、今の日本人では考えられないくらい、天皇陛下に対しては忠義という観念の強い人でしたから、本当に真面目に平和を求めたことを、昭和天皇は知っておられました。

あの平和主義の平和を愛好された昭和天皇が、東條英機を悪く思われなかったんですね。
「昭和天皇実録」を読むと、それが良くわかります。「東條は本当によくやってくれた」というような趣旨のことを述べておられます。真面目に努力したけれども、結局ダメだったという事です。なので、戦争が始まった時の大戦の書、戦争が始まった時に、勅語が出るわけですが、その勅語の中にも、「このまま行くと、日本はどうしても生きていけないから、どうしても生きていくために、戦争をしなきゃならない」という、そういう文句があるわけです。なので、この前の戦争。すなわち、大東亜戦争は、普通では、日本が生存するための戦争であるわけです。

 ところが、東條さんの忘れられた一面があります。それは、昭和18年に行いました大東亜会議というものです。アジアの平和のための非常に重要な出来事なのに、戦後、大東亜会議は、ほとんど日本の歴史、教える人、口にする人が消えてしまっています。

この大東亜会議というのは、昭和18年ですから、戦争3年目に入った頃です。重光外務大臣のアイデアだったと思いますが、外務大臣のアイデアを採用するのは首相ですから、東條首相が主催したことになります。そしてアジア大東亜の今まで植民地だった人達のリーダー達をみんな集めて、大会議を開こうと。こういうことが行なわれたわけです。そこには、どういう方が集まったかというと、主だった人には、ビルマのバー・モウ首相。ビルマは、その直前日本がイギリスから独立させました。それから満州国の張 景恵(ちょう けいけい)総理大臣。満州国は、日本が協力して独立させた国で。愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)。これは清(しん)帝国の最後の皇帝、宣統帝(せんとうてい)で満州国の皇帝です。大臣は清朝の方ですから、日本は後ろ盾となり、多大なインフラ投資を行いました。誤解されている人も少なくないですが、要するに満州人の国でありました。それから中華民国からは、汪 兆銘(おう ちょうめい)。蒋介石は重慶という山の中にいて、何もしていませんから。ただ滅びなかったのは、インド・ビルマの方からイギリスなんかが物資を送ったり、オランダやソ連なんかが物資をくれたから、生き延びたというだけで、実際には山の中の政権です。汪兆銘は、南京政府を作っておりました。その委員長ですね。それからタイのワン・ワイ・タヤコーン殿下ですね。それからタイは戦前も独立国でありました。フィリピンのラウレル大統領。これもフィリピンを日本が独立させました。それから自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首相。このような人達が一堂に会したわけです。だから今入っていないのは、インドシナ三国。ベトナム・ラオス・カンボジア。ここの代表は、まだ来ていません。これはまだフランス領でありまして。ちょっと日本は手が出なかったんじゃないかと思います。インドネシアはオランダ領でありましたから、スカルノが来ていますけど。正式な代表ではありませんでした。まだ独立していませんので。それでもスカルノは、天皇陛下にお会いしています。天皇陛下が進んで握手をされたそうです。ですから、スカルノは、ここに代表として出ていないけど、非常に感激して帰っています。当時インドネシアは、オランダの植民地で。それは数百年間、酷い目に遭っていたわけです。インドネシアは、お米が何度も獲れる暖かい国なのに、オランダ政府は、ヨーロッパで売れるものだけを優先的に栽培させて、米なんかを勝手に作ると、処罰したわけです。ですから、米が大量にできる国で餓死者が出ていました。そしてオランダは儲かる作品・作物。ヨーロッパで売れる作物なんかを持って行ったわけですね。香料だとか何とかかんとか。ですから、スカルノにしてみれば、オランダの女王と会うなんていうことはできないし、いわんや握手してもらうなんて夢にも思わない。それが日本では、ちゃんと天皇陛下が握手していただいた。だから戦後も独立してからも、スカルノは、来日されると、よく皇居に行って、大変和やかに過ごされていたそうです。ここに見ますように、今ここに名前を挙げた方々、この人達は、誰もまともな国際会議に出たことはありません。今の若い人が最も理解できないのは、戦前の人種差別のものすごさですから。アメリカに移民した日本人が非常に冷遇されたこと。いわんや、戦争が始まったら、みんな土地も取り上げられたことは知っていますが、他の国の有色民族に対する差別政策というのは、すごいものでした。

それは時々話題にもなりますが、アメリカの黒人問題・奴隷問題は有名ですが、例えば、イギリスも、綿製品を売るために食料である小麦の生産を制限して綿花を作らせ、後には支那に売るアヘンを作らせていました。それゆえ、何度も飢饉が起こり、インド人の数百万人が餓死しました。それからビルマは、王妃を取っ捕まえて、セイロン島に流したのかな。そして王女なんかは、インド兵用の娼婦にされ、そして絶対に反乱を起こさないように、尖った刃物は持たせない。そして仏教国のインドの警察官は、宗教の違う地域の人にやらせるとか、学校には行かせないとか、国民を分断させて国民同士争わせるとか、そういう仕打ちを受けてきた人達です。

ですから、ここに集まった人達は、それこそ初めて日本という、当時の世界の一流国から厚遇されました。三大海軍国・五大陸軍国の1つで、日本の皇室は、当時2600年と言っていましたが、2603年続いた立派な帝国で、イギリスをビルマやヒマラヤ、シンガポールから簡単に追っ払った人・国。香港からも追っ払った。それからアメリカをフィリピンから追っ払って独立させてくれた。そういう人の下に集まって、大会議を開く。こんなことは、いまだかつてなかったわけです。

そしてそこの理想が非常に立派でした。それは、日本はあらゆる今までの中国における権益とか色々あったけども、それを全部放棄する。そしてアジアの国々は、全部独立国にして仲良くやっていきましょうと。簡単に言えば、そういう事です。この宣言の意味は、それまでの戦争を起こした時は、日本は石油を止められ、あれも止められ、ABCD包囲陣に囲い込まれて、にっちもさっちも行かなくなった。それは、日本が1番困ったのは、アメリカやイギリスが日本に売らないと決定したこと。オランダも含めて。買わないというのは、買わないために、高い関税をかけたんですよ。昭和5年頃アメリカがホーリー・スムート法という、バカな法律を作って、1,000品目について、万里の長城のような関税をかけたりしたのですが。それは何百パーセントという関税です。それでも日本は、労賃を下げたり工夫して、何とか売っていたんですよ。だから買わないというための関税は、日本は工夫と努力とそれこそ低賃金で破って売っていました。何とか売っていた。ところが、向こうが売らないって言われると、これは手も足も出なくなったわけです。それで戦争というのが大筋でした。これは生存のためです。生き延びるための戦争でした。後にマッカーサーも認めています。

 それから、この大東亜会議を開いたために、世界史はここから変わるということをはっきり歴史に残したわけです。アジアから植民地はなくなるんですと。アジアからなくなるということは、他の所でもなくなるという意味ですね。アジアからなくなりますと。そしてこれが、これからの世界になりますという。で、すべての民族は平等であるという原則をバーンと打ち出したわけです。これは世界的な大事件です。これをどうして日本がもっと宣伝しないのか。あるいは、敗戦国としては宣伝しにくかったかもしれませんが。少なくとも学者は、もっと振り回さなければいけません。

これは東條内閣の最大の事業であって。そしてある意味では、日本の行った最大の事業でもあります。

 というのは、この大東亜会議の少し前に、ルーズベルトとチャーチルが会いまして。船の上で会いまして。大西洋憲章というものを高らかに打ち上げます。それは民主主義のとか、何か、と言うんですけども。自分達が持っている植民地の解放ということは言いませんでした。だから大西洋憲章は、戦後の歴史の本でも、随分大きく立派なことをやったというふうに書かれたりしていますが、それよりは大東亜会議の方が、100倍も重要なものでした。大西洋憲章には、これという歴史的な意味はない。強いて言えば、戦争。当時のアメリカとイギリスが戦争する時の口実みたいなものにすぎない。
 ところが、東條内閣が行った大東亜会議は、その後の20世紀21世紀を支配する大原理を国際会議という形で示したものなのです。

 だから、例えば、インド独立を考えてみましょうか。シンガポールが落ちた時、そこにもインド兵達がいたわけですが。そこでインド独立軍ができたわけです。で、チャンドラ・ボースが、そこの1番頭になりました。チャンドラ・ボースというのは、インドの名門の出身で、非常に血の気が多いと言いましょうか。愛国者で、インド独立のために戦おうということで、戦ってきた人なわけです。そして日本軍と一緒に、とにかくビルマ戦線に出て、イギリス軍を破ったりもしております。ほんのちょっとではありますが、インドにも足を踏み入れております。それが戦後裁かれたわけです。イギリス軍に。これは日本軍に手を貸したというわけで、反逆罪に問われようとしたわけです。その時に、日本のお節介な人もいまして。これはあくまでも好意からでありますが、あの人達は日本に強制されてインド独立軍を作ったんだというようなことを証明してやろうと申し出てあげたわけです。しかしチャンドラ・ボースの部下だった人は、チャンドラ・ボースという方は、終戦の直前、飛行機事故で亡くなるのですが。その部下達は、とんでもないと。我々はインド独立のために戦ったのであると言うので、堂々と述べたわけです。

 そうすると、インドの民衆も、ワーッと支持しました。それだけの愛国者を裁かせるなっていう声が大きくて、結局イギリスも手が出なくなってしまいました。これが引き金で、インドが独立することとなります。

東條首相の下では、インドは独立出来ませんでしたが、東條首相の下で、大東亜会議に参加し、そして東條首相の下で作られた正式な名前は、自由インド仮政府。これがインド独立の直接のきっかけになりました。

 で、イギリスは大戦で弱体化してしまい、インドから撤退することになりました。それで、ガンジー、ネール。あの系統から、ネールが首相になりました。で、ネールは、もちろん、非常に親日的でした。ネールも、初めて独立の夢を抱いたのは、日露戦争の日本の勝利を聞いた時だと言ってますから良かったのですが。時間が経ってみますと、インド人にしてみますと、これは無抵抗主義で時の流れを待って独立したという形になったガンジー、ネールの系統よりは、何と言っても戦って、一時期はイギリス軍にも勝ったチャンドラ・ボースの系統の方が輝いて見えてくるわけです。ですから、最近のインドなんかを訪ねた人の話では、チャンドラ・ボースというのは、インドでは、神棚というものはないでしょうが、神棚みたいな所に祀られていて。むしろガンジーやネールよりは尊敬されているという話も聞きました。

 それから、バー・モウですけど。これはビルマの人ですね。この方は、また戦後色々な事情で日本にも来たりしていますが、この方も、「日本ほど他の国、アジアの諸民族の役に立った国はない」と。しかし日本ほど報われない国はないというような趣旨のことを本に書いてくださっています。これを日本人が書きますと、自己宣伝ということもありますけど。このビルマの独立の趣旨が書きますと、これは非常に力があります。

 それから、ワン・ワイ・タヤコーン殿下も。ピブン首相も本当は来るべきだったんですが、ピブン首相は、昭和18年ですから、日本は勝てないんじゃないかなと思われたのかもしれません。
タイというのは、非常に政治家が利口な国だったので、首相は行かない方が良いと思ったんでしょう。しかし呼ばれたからというわけで、むしろ王室の方からワン・ワイ・タヤコーン殿下がいらっしゃったわけです。このワン・ワイ・タヤコーン殿下も、それはずっと日本に好意的で、日本が国際連合に加盟する時にも、ワン・ワイ・タヤコーン殿下なんかは、非常に力を尽くされたようです。

 それから、フィリピンのラウレル大統領。この方も、いつどこも、ずっと日本のために好意を持ってくださったんですね。アメリカは、大東亜戦争が始まる前に、フィリピンに独立を約束したんですが、全く無視されます。でも慌てて日本から独立させてもらって、そこの大統領になる必要はないんじゃないかという戦後の批判もあったようですが。

ラウレル大統領は、こう言ってたそうです。それは、アメリカが前にも、何度も独立を約束したけど、それは守られていないんだと。スペイン戦争の時もそうだったし。だからとにかく実際に独立させてくれるという日本。これは独立すべきだと思って独立したというわけです。

現在のフィリピンの独立記念日は、戦後アメリカから独立させてもらった時を祝ってますが、ラウレル大統領で独立したというのが本当です。これは、フィリピンでも、そのうち、だんだんそっちに行くんじゃないかなと思います。

 それから、満州国の張景恵総理大臣ですね。この人も、敗戦後の日本に対しても、ずっと日本は良いことをしたんだという考えを変えなかったそうです。
 
それから汪 兆銘(おう ちょうめい)。これは、現在の中国では最高の悪玉ということになっていますが、これは日本が敗戦したから、そんなことを言ってるのでしょう。現実の問題として、日本は当時中国の大都市のほとんど8割くらいは占領しておりましたし、蒋介石なんかは、山の奥だし。毛沢東もほとんど戦う気はなかった。そんな時に、中国の民衆を代表して、日本と交渉する機関は必要ですし。そしてできるのならば、その線をちゃんとして、日本が引き上げれば良かったわけです。ただ、それができなかったのは、蒋介石をアメリカ・イギリス・ソ連が助け続けるから、日本は簡単に軍隊を引くことができなかったので、汪兆銘という人は、悲劇の人だったのではないでしょうか。「これは自分がいなければ、日本軍と交渉して民衆の代表となる方がいない」と思ったのではないでしょうか。

その点はフランスのヴィシー政権と似ていると思われます。ヴィシー政権というのは、ヒトラーがパリを占領して、フランスが敗戦国になった後、取り残されたフランス人をまとめあげた、ドイツと交渉する政府です。ド・ゴールは、イギリスに逃げてしまいましたし。そういう時に、第一次大戦の英雄であったペタン元帥が、ヴィシー政権の1番頭になったわけです。ところが、フランス人も負け惜しみが強いものですから、ドイツが負けてからは、ヴィシー政権がけしからんと言う事になりました。ヴィシー政権ができたから、フランスがヒトラーに負けたわけじゃないのに、フランスが負けちゃったから、どうしても必要だから、ヴィシー政権ができていたのに、ヴィシー政権がけしからんと言って、ペタン首相を死刑に宣告しました。ド・ゴールは、実情が分かっていますから、死刑執行は取りやめさせましたけども。

ヴィシー政権があったから負けたのなら、これはヴィシー政権が裁かれてもいいんですけど。実際上、フランスは降伏してしまったのだから、その後片付けの内閣がなければならないんですね。

どうしても、汪 兆銘(おう ちょうめい)は、これ以上日本と戦うことは、とにかく知らぬ民衆のために不幸なことであると、手を打つべきである、ということだったと言います。そして汪兆銘は、もっと分かっていたと思われます。支那事変が始まったのも、何も日本側から勝手に攻め込んだわけじゃなくて、毛沢東とか、それからかなり敬遠しておったその共産党と一緒にやることになった蒋介石。この連中が悲劇を起こして、上海はもちろん、それから武漢三鎮まで占領されるようなことになってしまった。自分が出なければ、民衆がかわいそうだと。なんとか日本と手を打って、日本軍に引き上げてもらおう、ということだったと思います。

この汪兆銘の希望は、大東亜会議では、完全に日本から約束を取り付けます。
それまでなかったほどの確実な約束をもらったわけです。そして同時に、中国、当時の支那大陸にありました、他の国のイギリスやアメリカやフランスや何とかの権益も、全部日本が取り去ってくれるというのが、この会議で確認されたわけです。ですから、その意味では、汪兆銘は大成功だったんだと思いますね。ただ、日本がコケてしまって、敗戦してしまったものですから、汪兆銘は中国の裏切り者とされてしまいました。それは中国人が汪兆銘を裏切り者と言うのは勝手ですが、日本人から見れば、汪兆銘というのは、本当に中国民主主義のことを考えた人であり。むしろ無益な戦いを仕掛けてきた、あるいは続けようとして、とにかく炎上があるから戦争ができるくらいに考えてやっていた蒋介石。いわんや、毛沢東なんかよりも、はるかに中国民主主義のためだったと我々は言ってもいいのではないかなと思われます。

 で、このように見ていきますと、東條内閣は、敗戦内閣でありますから、東京裁判史観を注ぎ込まれた若い世代の人達は、東條は悪者であるとか、あるいは、そこで死刑になったから、靖国神社に祀るべきじゃないとか、あるいは、それに中国が文句を言ってくるなら、中国と和解、仲良くするために、靖国神社から取り除くべきであるとか、そういうアホなことは言う余地がないんですね。

むしろ私は、東條さんがやった大東亜会議こそ、20世紀中頃の最大の世界的な。世界の思想史的な事件であり。そして今の国連の本当の基礎にもなっている思想であり、これから100年200年経ってみますと、大東亜会議というのが本当に大きな意味があったということが、世界史的に理解されてくると思われます。

それが丁度313年にコンスタンチン大帝が。当時は大帝じゃなかったんですが。キリスト教を認めてやるというようなことをやったことが、今のヨーロッパのキリスト教の出発点になったような、そういう感じがします。

 今日は、東京裁判の犯罪人とみなされている東條首相の世界史的な。あるいは世界史思想的な意味を大東亜会議を通じて述べてみました。

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