「キリスト教と日本人奴隷」スペインの“日本植民地計画”を防いだ豊臣秀吉の政策とは



レコンキスタ以降、スペイン、ポルトガル人は香料を求めて世界中を荒らしまわりますが、スペインは土地と人民を支配するやり方を取ってきます。その時に彼らが武器にするのが、キリスト教でした。カトリック両王の国だったという事もありますが。宣教師がやって来るという事は、「ここはスペイン、ポルトガルの地にする」と言っているのと同様だったのです。室町時代後期から安土桃山時代の人達も、それに気づいていたのでしょう。宣教師がやって来ると日本人がさらわれて奴隷として売られるという事が横行していたためです。

スペイン、ポルトガルは、生糸や綿織物、鉄砲などを日本に輸出し、日本の銀と奴隷を得ていました。人、物、金の移動の自由化という、まさにグローバリズムですね。奴隷交易に文化的侵略もやって来ます。実際、日本人を奴隷として売り飛ばしたのは、キリシタン大名ですが。皮肉なことに、世界中で行われた奴隷貿易を行なったのは、現地の人達で、日本でもキリシタンだった訳です。普通の日本人なら思いもよらなかった事でしょうが、一神教の宗教は、異教徒を認めない宗教のために、こういうことが普通に行われていました。

一応、イベリア半島でも問題になっていまして、スペイン王カルロス1世の孫であるポルトガル王セバスチャン1世は、「奴隷交易が異教徒のキリスト教への改宗の妨げになる」として、奴隷交易を禁止します。

勅令が出ても、残念な事に奴隷交易は続きました。ビジネスのパワーは国王の権威よりも強かった訳です。

少し遅れて、「我々はキリスト教を布教しません。ただビジネスが出来れば良いです。」とやって来たオランダ人が重宝されるようになるのは当然の事でした。

オランダは香料諸島ことインドネシアを抑え、欧州から金銀を持ち込みました。アメリカ大陸からスペインに入った金銀をオランダが交易で入手して、それを香料諸島に持っていく。そこで香料を買い付けて欧州で売りさばいて、ぼろ儲け、というビジネスでした。
グローバリズムの世界では、金・銀が通貨でした。お金というものは債務(さいむ)と債権(さいけん)の記録ですが、その記録が通用するのは、その国内だけだからです。当時には為替レートがなかったから、金貨、銀貨が使われていたという事です。

日本人はオランダから、生糸、織物、鹿皮、鮫皮、を仕入れて、金・銀・錫(すず)・樟脳(しょうのう)で支払っていました。

結局、オランダは、日本と西欧との対外貿易を独占して、ぼろ儲けしました。その日本からの莫大な儲けが、オランダの対スペイン独立戦争を支え、更には、オランダを覇権国へと押し上げた一因になったと言われております。

で、日本人が対欧州の貿易をオランダに限定した江戸時代当時、日本は「鎖国」していた、と言われておりますが、「鎖国」という言葉は、明治以降に生まれた言葉であって、江戸時代の日本人はそんな事言っていませんから。

江戸時代の日本は四つの窓口を設けて、海外との交易をしていました。明(みん)や清(しん)は冊封体制(さくほうたいせい)に入らなければ交易してくれなかったのと同じことです。合意のない所とは貿易しない、ということです。近年の歴史の考え方でも、「これは鎖国ではない」という風になっています。

その合意のあったものは、長崎の出島(でじま)でのオランダとの交易が有名ですが、他にも三つありました。

琉球の明(みん)、清(しん)との窓口が琉球国(りゅうきゅうこく)であって、琉球王国などと歴史上存在していないものを、あたかも、存在していたかのような風潮には参ってしまいますが。
琉球国の国は、武蔵国(むさしこく)とか摂津国(せっつこく)。薩摩国(さつまこく)とかと同じであって、「日本の琉球地域です」というだけの事です。明(みん)や清(しん)と交易するためには、冊封体制(さくほうたいせい)に入らなければならなかったから、薩摩の庇護の下にあった琉球が冊封体制に入って、明(みん)や清(しん)と交易していただけの事です。琉球から、明(みん)や清(しん)に売られていたものの代表が昆布です。沖縄では昆布は取れません。ではどこから持ってきたのか?北海道、蝦夷(えぞ)ですね。

冊封体制に入った琉球は漢方薬などを仕入れ、薩摩がそれを買い、日本海を北上して富山で薬を売り、北海道で昆布を仕入れ、琉球で売り、それを琉球は支那に売る、という商売をやって儲けていました。

富山は行商で全国に薬を売って歩くようになり、「富山の薬売り」として有名になりました。

蝦夷では松前藩(まつまえはん)がアイヌと交易をやっており、アイヌは山丹(さんたん)、ダッタン、つまり満州人と交易をやっていました。

対馬藩が朝鮮半島とも交易をしていました。

ちなみに、桜田門外の変で命を落とした井伊直弼(いい・なおすけ)は「鎖国」を「閉洋之御法」(へいようのごほう)と呼んでいました。要するに「西洋」を閉じます。スペインやポルトガル人が嫌なのだという事です。なぜなら、キリスト教、カトリックを布教するから、です。「閉洋之御法」は彼らを防ぐ法律だった訳です。

結局、キリスト教を利用して植民地支配地域を広めていたスペイン、ポルトガルを締め出すためにキリシタンの禁止が行われたわけで、それが出来るようになるのは、1467年の応仁の乱(おうにんのらん)から始まった戦国時代に一端終止符を打った豊臣秀吉の天下統一まで待つ必要がありました。織田信長の時代は、まだ国土の半分しか世圧しておらず、諸大名に言う事を利かせる力もありませんでした。実際、当時は、日本はイエズス会の縄張りでありました。

結果として、豊臣秀吉と徳川幕府のキリスト教の締め出し政策が、日本の植民地化を防いだ、ということです。

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