「後醍醐天皇 対 鎌倉幕府」天皇に忠誠を貫いた最強の懐刀楠木正成



鎌倉時代後期、日本の皇位継承者が余っており、皇位をめぐる争いが頻繁に起こりました。
日本の皇統についての特徴ですが、皇位継承を争うのは、皇族同士であって、皇位を簒奪してやろう、という人は現れず、外国から干渉を受けることがありませんでした。今のように、国連が「女性が天皇になれないのは差別だ」などと口を挟むこともありません。以前に制作した「女系天皇の裏」に関する動画を見てもらえれば、その大切さがわかっていただけるであろうと思われます。昭和二十年以前なら、内政干渉だ、と大問題になっていたと思われます。

なぜ、皇位継承問題で、国を二分してしまうような争いが起こるようになったのでしょうか?

元をたどると、第88代後嵯峨天皇(ごさがてんのう)には何人もの男子があり、その中で、皇太子ではない恒仁(つねひと)親王を溺愛していました。西暦1242年、後嵯峨天皇が退位して太政天皇(だじょうてんのう)となられる際に、皇太子である兄の久仁(ひさひと)親王こと、後深草天皇(ごふかくさてんのう)に譲位しました。その後、後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)によって、後深草天皇は恒仁親王に譲位させられます。その後、兄の後深草天皇の系統である持明院統(じみょういんとう)と恒仁親王こと亀山天皇(かめやまてんのう)の系統である大覚寺統(だいかくじとう)の二つの系統が生まれました。

当時の権力者は鎌倉幕府だったので、次の天皇を幕府が指名するようになり、十年ごとに持明院統と大覚寺統の双方から、次の天皇が生まれるようになりました。

第96代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は学問が得意で、特に支那の朱子学(しゅしがく)に傾倒してしまいました。朱子学は正統(せいとう)を重んじる学問で、鎌倉幕府が次の天皇を決めることに疑問を持ち、倒幕復古を計画しました。

1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位すると、息子の護良親王(もりながしんのう)を皇太子にしようとしますが、鎌倉幕府は、慣例に従って、持明院統の量仁(かずひと)親王を選定しました。

後醍醐天皇はその事に腹を立て、それで倒幕計画を立てて兵を起こそうとしましたが、あっという間に露見しました。鎌倉幕府は三千の兵を京都に送りますが、後醍醐天皇は三種の神器(さんしゅのじんぎ)を抱えて、笠置山(かさぎやま)へと逃亡しました。
その時、突然、楠木正成(くすのき・まさしげ)が登場します。

「太平記」には、後醍醐天皇が笠置山でお昼寝をしていると夢を見た、とあります。その夢は、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人(かんにん)が位(くらい)の順に座っていましたが、南に儲けられていた上座には、まだ誰も座っておらず、その席は誰のために儲けられたものなのかと疑問に思っていると、子供がやって来て、「その席はあなたのために儲けられたものだ」と言って空に上って行った、というものでした。
後醍醐天皇が目覚めた後、夢の意味を考えていると、「木」に「南」と書くと「楠」(くすのき)という字になる事に気づき、寺の衆徒(しゅと)に、この近辺に「楠」という武士がいるかと尋ねたところ、河内国石川郡金剛山に橘諸兄(たちばな の もろえ)の子孫とされる楠木正成というものがいる、というので、後醍醐天皇は夢に納得して笠置山に呼び寄せました。当時は鎌倉時代後半なので、武士は全員、鎌倉幕府の配下でした。そんな時代にも関わらず、後醍醐天皇は倒幕を叫び、河内から楠木正成をを呼び、我々のために戦って欲しいと頼みました。全鎌倉武士を敵にする、という事です。ところが、楠木正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない。」と快諾しました。

こうして、楠木正成を味方につけた後醍醐天皇は鎌倉幕府軍と戦闘を始めますが、完敗して、後醍醐天皇は捕らえられ、護良親王(もりながしんのう)が立てこもる吉野城も陥落し護良親王は逃亡。ところが、八十万もいた鎌倉幕府軍でも、楠木正成が立てこもった千早城(ちはやじょう)だけは落とせませんでした。その時の鎌倉幕府軍の中に、新田義貞(にった・よしさだ)と足利高氏(後の尊氏)(あしかが・たかうじ)がいました。

後醍醐天皇は捕らえられた後に、持明院統(じみょういんとう)の光厳天皇(こうごんてんのう)に譲位させられ、三種の神器(さんしゅのじんぎ)も取り上げられ、隠岐島(おきのしま)に流されました。

その状況でも、楠木正成はあきらめず、千早城を守り続けました。
余りにこの城を落とせないので、段々、鎌倉幕府の権威が落ちていきました。

その後、後醍醐天皇は隠岐島(おきのしま)を脱出して伯耆国(ほうきのくに)船上山(せんじょうさん)にて挙兵。これを追討するため、鎌倉幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇方に帰順して六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略します。大軍で攻めても千早城を落とせない鎌倉幕府を見限ったという事です。さらに、新田義貞も関東で兵を起こし、後醍醐天皇方に帰順して、執権北条高時(ほうじょうたかとき)を討ち、わずか二十日間で、源頼朝(みなもとのよりとも)以来、百五十年間続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
鎌倉時代末期には全ての武将が幕府に恭順の意を示していたにも関わらず、楠木正成が千早城に立てこもって戦い続けていたら幕府が倒れてしまった訳です。当時の人達も吃驚(びっくり)して、様々な記録が残っています。

後醍醐天皇の宿願が果たされたわけですが、その論功行賞(ろんこうこうしょう)の際に問題が起こりました。身贔屓ぶりが徹底しており、身を粉にして働いた、楠木正成等の武士はほとんど何ももらえず、北条家が滅亡して広大な領地を得たので、それを論功行賞として配ればよいのに、後醍醐天皇のお気に入りの舞姫(まいひめ)達にあげてしまう、等の事をやっていました。
朱子学に傾倒していた後醍醐天皇にとっては、武士というのは見下すべき存在であったという訳です。儒学的には、士大夫(したいふ)が偉く、武人は下である、という事になっていますから。その影響を受けていたので、こういうことになってしまいました。
当然の事ですが、ほとんどの武士は怒りました。多くの武士が離反し、最終的に足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱を引き起こすことになりました。関西で、後醍醐天皇側の楠木正成、
新田義貞、北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)等と戦いましたが、足利軍は敗北しました。足利尊氏は、西へ西へ、と逃げていきます。その時、新田義貞等が追い打ちをかけていれば、歴史が変わっていたと思いますが、新田軍等は追撃を行いませんでした。

その後、足利尊氏は九州で軍を整え、後醍醐天皇側の軍勢の二十倍の大軍で京都に攻め上ってきました。その時、楠木正成は後醍醐天皇に、京都を捨てて比叡山に上り、足利軍を京都に誘い込んで、兵糧攻めにすべきだと提言しましたが、却下されてしまいました。

そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになりました。

その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行(まさつら)を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げました。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝(みかど)のために、お前は身命(しんめい)を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵(ちょうてき)を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水(きくすい)の紋が入った短刀を授け、今生(こんじょう)の別れを告げました。

一.
青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か

二.
正成涙を打ち払い
我子(わがこ)正行呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方(かなた)の浦にて討死(うちじに)せん
汝(いまし)はここまで来(きつ)れども
とくとく帰れ故郷へ

三.
父上いかにのたもうも
見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん
この正行は年こそは
未だ若けれ諸共(もろとも)に
御供(おんとも)仕えん死出の旅

四.
汝をここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己れ討死為さんには
世は尊氏の儘(まま)ならん
早く生い立ち大君(おおきみ)に
仕えまつれよ国の為め

五.
この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
汝にこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

六.
共に見送り見返りて
別れを惜む折りからに
復(また)も降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀(あわれ)と聞かざらん
あわれ血に泣くその声を

この曲『桜井の訣別』(さくらいのけつべつ)は、明治32年(1899年)に発表された日本の唱歌ですが、この時の楠木親子の伝承が、素晴らしく描写されています。

なぜ、楠木正成はそこまでして後醍醐天皇に忠誠を尽くそうとしたのかが、素晴らしく表現されています。倒幕に成功した後の後醍醐天皇の無茶苦茶ぶり、大軍の足利軍に負けない方法を献策しても否定される、等、本来なら足利軍に投降しても不思議ではないのに、そればかりか、息子に「大きくなったら、帝(みかど)のために尊氏と戦え」と伝えていたのはなぜか?

「日本というのは、皇統が繋がっている国で、それが日本国なのだ。それを守るために自分は戦っているのだ。後醍醐天皇がどうのこうの、ではないのだ。」という事です。

実際に正行は足利家と戦い続けます。後醍醐天皇ではなく、大覚寺統のためです。その息子や孫も、足利と戦い続けます。足利尊氏は室町幕府を開きますが、京都には、楠木など大覚寺統系の人達も多く残っていたために、京都に幕府を置く必要があったから、と言われております。

「例え、天皇陛下がとんでもない人物でろくでもない政治をしていたとしても。皇統を守らなければならない。なぜなら、それが日本国そのものだから。」これが保守の本質です。

「あんな人物が天皇だったら、日本はおしまいだぁ。」だからと言って、皇統を廃絶してもよいという話にはなりません。百年後の日本人から、千年後の日本人から、どう思われるんですか?その方の個性などはどうでも良くて、神武天皇からの男系の血を受け継いでいる、という事だけが大事で、それこそが日本国なのだ、という事を楠木正成は語っています。これこそが「国体」、国の在り方であって、それを守っていくのが保守という事です。

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