「教科書が教えない元寇の真実」モンゴルによる日本侵略の目的は九州特産の“あるモノ”



このチャンネルの別の動画でも、何度も話していますが、古来から日本の外交相手は、朝鮮半島ではなくて、支那でした。

これ以前にも何度も交流していますが、西暦607年に、聖徳太子(しょうとくたいし)が小野妹子(おののいもこ)を、隋(ずい)に派遣しました。遣隋使(けんずいし)ですね。
隋(ずい)は、北方の遊牧民が土着化して、五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)を終わらせて誕生した帝国ですが、その第二代皇帝が煬帝(ようだい)でした。その煬帝に聖徳太子は親書を送りました。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(ひぼっ)する処の天子に致(いた)す。恙無しや(つつがなしや)、云々(うんぬん))

煬帝がどういう反応したのかはともかく、この辺りから本格的に日本以外の国との外交が始まっていきます。基本的に支那には「中華思想」というものがあり、支那の文明を外に広げていくという考え方を持っています。梅棹忠夫(うめさお ただお)元京都大学名誉教授の『文明の生態史観』で区別される典型的なランド・パワーの発想ですね。

ここで、ランド・パワーの国との本格的な関わり合いが始まりました。その後、遣唐使(けんとうし)へと続いていきますが、例えば、奴隷や宦官(かんがん)、纏足(てんそく)など、嫌なものは受け入れず、日本文化に合う、良い所だけを受け入れて来ましたが、西暦894年に隋の後継国である唐(とう)が、かなり衰退してきた事もあり、菅原道真(すがわら の みちざね)が遣唐使廃止の建議を提出して、遣唐使が終わることになります。菅原道真は遣唐使として唐に赴くはずだったのですが、当時は、黄巣(こう そう)の乱が終わったばかりで、実際、907年に、唐は滅亡してしまいますので、行っていたら、日本に帰ってくることは出来なかったでしょう。

それで、国家と国家という点では、関係がある程度、制限されるようになっていきましたが、貿易は続いていました。民間レベルで。

それが、元寇(げんこう)を引き起こす事となります。

1274年に文永の役(ぶんえいのえき)、1281年に弘安の役(こうあんのえき)と二度の蒙古襲来がありました。

元寇の理由は、日本側から見れば「ビジネス」でも、クビライ・ハーンから見れば、許しがたいことでした。
クビライ・ハーンの元(げん)帝国は、当時、南宋(なんそう)との死闘を繰り広げており、南宋が火薬の生産に対して、日本から輸入する硫黄が必要でした。火薬の原料は、木炭(もくたん)と硝石(しょうせき)と硫黄ですから。支那には火山がないので、硫黄が採れませんでした。それを日本から輸入していたので、その輸入経路を止めるために、対日開戦を決意しました。

1274年の文永の役(ぶんえいのえき)では、軍船726から900艘(そう)の元(げん)の艦隊が襲来しました。対馬(つしま)が朝鮮の案内で元に襲われて、残虐な仕打ちをされていたため、その情報が鎌倉幕府に伝わり、鎌倉武士団は、博多湾で待ち構えていて、戦闘になり、撃退しました。ちなみに、この時は台風は来ていませんでした。神風が吹かなくても勝った訳です。戦闘が長引き、冬が近づいて来たため、帰れなくなるのを恐れて帰国した訳です。

1281年の弘安の役(こうあんのえき)は本格的な元寇であり、軍船3500艘(そう)の元(げん)の艦隊が襲来しました。朝鮮半島から攻めてきた軍と江南(こうなん)の方から攻めてきた軍が日本で合流しました。博多湾で戦闘が勃発してから二か月後に台風が襲来し、江南(こうなん)軍は被害を受けました。沈んだ船が発見されていますから確実ですが、致命的なダメージを受けた訳ではありませんでした。なので、この後もひたすら戦闘が続きます。ようやく、撤退を決意した元(げん)軍を鎌倉武士団が散々に追い打ちをかけ、2、3万人を捕虜にしました。弘安の役は元(げん)の完全敗北でした。

クビライは第三次の日本侵攻を計画しますが、頓挫します。

この内容は、元朝の「実録」、「元史」、弘安の役当時に、元(げん)に滞在していたマルコ・ポーロが「東方見聞録」に書き残したもの等からのものです。

弘安の役によって、支那との交易は一時的に中断します。が、元(げん)が南宋(なんそう)を滅ぼした後も、日本の商船は普通に行ってました。日本の朝廷や鎌倉幕府の許可の下(もと)に勧進(かんじん)活動を名目として寺社造営料唐船(じしゃぞうえいりょうとうせん)が派遣されるなど、日本側は元(げん)に対する警固体制を強化しつつ貿易を続けていました。

もっとも、弘安の役での敗北以降、元(げん)の官僚の中には、日本からの商船に対して、高い関税をかけたり、乗組員に嫌がらせをしたりしました。そのため、日本側も武装して、元(げん)側に抵抗するようになり、それが倭寇(わこう)の誕生へと繋がる訳です。
国家同士の付き合いもありますが、常にその土台として、民間同士のビジネスが、いつの時代にもあったという事です。

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