人類史上最悪の兵器  



崇神天皇(すじんてんのう)の御代を紹介した際に、この話を解説し忘れていたので、より理解が深めてもらう上で、この動画を作ることにしました。

718年にヨーロッパのイベリア半島がイスラム教徒に征服されてから1492年にキリスト教徒がイベリア半島を再征服するレコンキスタ(再征服)以降の人類史、西洋史観では「大航海時代」と呼びますが、スペイン人やポルトガル人を始めとする西洋人が、なぜ海の道を使い、アジア、アフリカ、アメリカ、オーストラリアを侵略、征服できたのか、から始めなければ、表面的な話になってしまうので、その裏に隠された真実が解ってもらえないと思い、教科書では語られることのない話を紹介したいと思います。

レコンキスタ以降の欧州諸国は血みどろの戦いを繰り広げることになるのですが、その犠牲者は西洋人には限りません。大航海時代に香辛料(スパイス)を求めて、西洋人が海の道を航海し、世界各地を支配下に置いていく過程で、欧州以外の膨大な人々が犠牲になってしまった、というのが、史実です。

アメリカの歴史研究家のマシュー・ホワイトが膨大な資料から、歴史上の大虐殺を解き明かし、最も人類が死んだ災厄は、第二次世界大戦であった、と書いています。約6600万人が亡くなりました。もっとも、第二次世界大戦の6000万を越える死者数は、世界各国の戦死者、戦病死者、など、戦火の犠牲になった方の総計です。

それに対して、これから取り上げるジェノサイド(その共同社会や民族を滅ぼすほどの大量殺害)は、一つの大陸に暮らす人々の95%の人達が命を失ってしまった史実です。日本の歴史のように穏やかなものではなく、ユーラシア大陸では血で血を洗う戦乱の歴史を繰り広げています。そもそも、街の作り方が日本とユーラシア大陸の国々とは全く違っています。
ユーラシア大陸では、欧州もロシアもイスラムもインドも中国も、城壁で囲む形で街が造られますが、日本の場合は城を囲む形で町が造られている。城下町などという概念があったのは、世界中で日本だけです。大陸では、いつ地平線の向こうから騎馬の大群が押し寄せてくるかわからない。都市が占領されると、そこに住む住民は皆殺しにされてしまうため、分厚く高い城壁で、都市の住民を守る必要がありました。

ところが過去の侵略戦争において、最も人を殺害した兵器は、銃でも、弓矢でも、大砲でも、爆弾でも、ありません。

答えは、「疫病」です。

伝染病、ですね。「疫病」が殺した人の数は、他の物理形状を持つ兵器と比べて、桁がいくつも違います。ちなみに物理形状を持たない兵器には、他にも毒ガスや細菌兵器、生物兵器などがありますが、疫病の場合は侵略者側が意識せずに使用して、膨大な人々を殺してしまいます。

話は変わりますが、人類史という視点で見ると、ユーラシア大陸では農業や畜産業、食文化といった文明が、相対的に早いスピードで各地に伝播しました。ところが、南北アメリカ大陸やアフリカ大陸では、なかなか広がりませんでした。人類はアフリカで生まれ、世界中に広がっていったと言われているのに、です。

実は理由は簡単で、ユーラシアは東西に伸びている大陸なのに対して、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸は南北に伸びている大陸であるためです。東西に伸びているという事は緯度が同じという事です。南北に伸びている大陸は経度が同じですが、緯度は次々に変わっていきます。つまり、ユーラシア大陸では、同じ緯度のために、同じ気候や風土が横に伸びているのに対し、アフリカ大陸や南北大陸では移動するのに従って、気候や風土が変わってくるわけです。似たような環境が東西に広がるユーラシア大陸では、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸とは比較にならない速度で農産物や畜産業が伝わっていきました。モンゴルのような遊牧民の大帝国が出来たのは、ユーラシア大陸だからです。

ユーラシア大陸でも南北では家畜の種類が変わって来ます。例えば、シベリアではトナカイ。ユーラシア・ステップでは馬、羊、山羊、牛、など。中国では豚。さらに南の赤道の近くではラクダや水牛、など。緯度に応じて家畜の飼われる種類が変わります。逆に言えば、東西に移動して経度が変わったとしても、家畜の種類は同じ、という事です。

ちなみに日本人の多くは気が付いていませんが、日本とスペインやポルトガルは北緯40度で、同じ緯度圏にあります。秋田県とマドリードは同じ北緯40度です。トルコの首都アンカラも同じです。イギリスのロンドンだと樺太の真ん中くらいです。緯度が同じであれば、気候や風土が食性にそれ程違いが出ないため、ある場所で作られた農産物が東西に広がっていきます。南北に広がっていると、少しの移動で、気候がガラリと変わってしまいます。結果的に、食性や哺乳類の生態が、東西に帯状に分布し、農業や畜産業が南北には伝わりにくい状況でした。

結果的に、ユーラシア大陸では、繰り返し、疫病が流行するようになっていきました。

インフルエンザ、マラリア、ペスト、天然痘、コレラ、など、致死率が高い伝染病は、元々は家畜がかかる病気だったのに、人間に流行するように変異していったからです。
はしか、結核、天然痘は牛から、インフルエンザは豚やアヒルから始まったと考えられています。

今でも飼われている鳥、家禽(かきん)から人に感染するインフルエンザに対しては、重大な警戒が必要です。

ちなみに、インフルエンザは、今では大したことがない病気に思われていますが、それは医療技術の発達のおかげで、1918年から19年に大流行したスペイン風邪では、全世界で感染者5億人、死者2000万人以上という、とてつもない被害をもたらしました。

中世はもっと悲惨で、1346年から52年にかけて、欧州で大流行したペストでは、当時のヨーロッパの人口の4分の1が亡くなり、致死率が70%以上の都市もありました。

現在大流行のコロナ・ウィルスも、こんなに悲惨な状況を生まなければ良いのを願うのみです。

家畜を飼わない文明である日本でも、やはり疫病の流行は防げませんでした。ちなみに以前、別の動画に、崇神天皇の御代に疫病が流行し、民の半ばが死亡し、嘆き悲しんだ崇神天皇が神殿で祈ると夢の中に大物主(おおものぬし)が現れた、という話があります。「古事記」「日本書紀」では疫病の流行が大物主のせいになっていますが、ユーラシア圏に属する以上、日本にしても、パンデミックから逃れることは出来ませんでした。当時の日本には家畜はいませんでしたが、感染した人は訪れますから。
人間に感染してパンデミックを引き起こした病原菌だけが、今でも存在している訳です。それ以外の物は滅びてしまったのでしょう。

ユーラシアの場合は、東へ西へ、と、家畜や感染した人間が移動するため、日本を含めて、大陸各地の人達は疫病で苦しみ、生き残るために身体に抗体を持つようになります。病原菌に対して抗体を作ることが出来なかった人は、みんな死んでしまったわけです。
現代に生きる我々は、過去に疫病で死ななかった先人の子孫なのです。

ユーラシアでは次々に家畜発祥の疫病が流行し、生き残った人は、身体に抗体を持った人に限定されたので。身に着けられなかった人は次々に死んでいった。残酷ですが、わかりやすい歴史です。

では、アフリカ大陸や南北アメリカ大陸はどうだったのでしょうか?

南北に移動すると、気候など、自然環境が大きく変わってしまうので、人間や家畜が長距離を移動することが少なかった大陸では、疫病を経験しないまま、抗体を身体に宿さないまま、歴史を積み重ねてしまった。

アメリカ大陸にはそもそも家畜がいなかったし、いた家畜はラマとアルパカだけで、しかもアンデス山地限定でした。アメリカの先住民が馬に乗って白人と戦う姿を映画等で見たことがあると思いますが、それはコロンブスがアメリカ大陸に到達して数百年後の事で、つまりは、アメリカ大陸の先住民がヨーロッパから来た侵略者と戦うために、ヨーロッパ人が持ってきた、馬や銃で武装するようになっていった訳です。

レコンキスタの最終局面、1492年に、フェルナンドとイザベラのカトリック両王(カトリックりょうおう)の下(もと)に、クリストファー・コロンブスが現れ、アジアの香料諸島にたどり着き、香料を手に入れるためにはアフリカの南端を回る東側ルートではなく、大西洋を西に進んだ西側ルートを開拓すべき、と持ちかけました。アフリカの喜望峰を回るルートは既に隣国のポルトガルが先行していたためですが、1488年時点でポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端のアガラス岬や喜望峰を発見し、インドに至る海路を確認した上で、リスボンに帰還していました。ポルトガル陣営とは異なる航路を発見することを、スペインは望んでおり、そこでカトリック両王はコロンブスの提案を受け入れ、両者の間で「サンタ・フェ契約」が成立しました。スペイン王室が航海を支援し、コロンブスは発見した土地の総督になるなど、両者の分け前が明記されました。

そうまでして、インドや香料諸島に行きたかったのはなぜでしょうか?

それは食文化の問題です。世界で最も早く農耕が始まったのは、メソポタミアを中心とした、肥沃な三日月地帯、今で言えば、イラク、シリア、イスラエルからエジプト北部に至る半円形の地帯ですが、欧州は距離の問題もあり、肥沃な三日月地帯から、比較的早い時期に農業が伝わりました。主要農産物は、メソポタミヤやエジプトと同じく、小麦でした。同時に畜産業も欧州に入っていき、欧州の人々の食生活は小麦や牧畜の収穫が中心となりました。ところが、緯度がメソポタミヤやエジプトよりも高い事もあって、小麦の収穫率が肥沃な三日月地帯ほど高くありませんでした。当時の中世欧州では小麦の収穫倍率が5倍。現在のアメリカでも23.6倍、イギリスで15.7倍となっております。それ程高いわけではありません。それに対して、米は中世でも20倍以上。現在は100倍以上なので、農業生産性が全然違います。

加えて小麦は畑作であるため、水田の稲作とは異なり、連作障害が起きます。同一作物(同じ科の野菜)を同じ圃場(ほじょう)で繰り返しつくり続けることによって生育不良となり、収量が落ちてしまう障害のことです。 同じ作物をつくり続けると、土壌の成分バランスが崩れるだけではなく、その作物を好む菌や病害虫の密度が高くなるため、微生物に偏りが出てその科特有の病気になりやすいと言われております。そのため、欧州では土地を三等分して、年ごとに、違った作物を育てていきました。三年に一度土地を休ませる三圃式農業(さんぽしきのうぎょう)が行なわれていたという事です。

畜産業を行うには広大な牧草地を必要とします。なので、土地の多くを畜産物の飼育に奪われてします。中世欧州の食生活はなかなか厳しいものがありました。特に冬を生き延びるのが大変です。中世欧州の人は秋に家畜を殺し、肉を塩漬けにするなどして、冬を乗り切るために保存しました。干し肉、燻製、塩漬け、ソーセージ、ハム、など、と色々と工夫するわけですが、肉は日が経つにつれて腐敗臭が酷くなり、味も劣化します。とはいえ、他に食べるものがないので、欧州人たちは冬を乗り切るまで、腐った肉や干した魚を食べて、飢えをしのぐしかありませんでした。それで香辛料が必要となりました。インドネシアやセイロン島、インド、マレーシア、等で、ナツメグ、シナモン、胡椒、クローブ、セージ、カルダモン、などのスパイスは塩漬け肉や干し魚の嫌な臭いを消しますし、殺菌作用もあります。かつ、味覚的に食べやすくしてくれます。また香辛料は肉の防腐剤としても役に立ちます。

欧州の香辛料の需要は無限に近かったのですが、供給は限られていました。それで西洋の人々は海に乗り出して、何とか香辛料を獲得しようとした訳です。

まずはポルトガル人がアフリカ周りの航路を開拓した。対抗するスペインは西回りで香料諸島を目指した。

もっとも、スペイン王室の支援を受け、大西洋の探検に乗り出したコロンブスは、香料諸島ではなく、西インド諸島にしか着いていないんですが。
ヨーロッパ人による新大陸の発見、と歴史の本には書いてありますが、本当は違いますが。

ヨーロッパ人で初めてアメリカ大陸に上陸したのは、史実で確認できているものでは、ノルウェーのバイキングです。西暦1000年頃、アイスランド、グリーンランドに進出し、居留地を作っていきました。ノルウェーの南部、アイスランドの南部、グリーンランドの南部は北緯66度33分という北極圏から少し南に下がった緯度で並んでいます。そしてグリーンランドから西に500キロ進むと、カナダのバフィン島です。大雑把に言うと、5、600キロごとに、ノルウェー、アイスランド、グリーンランド、カナダが並んでいます。

グリーンランドに入植したバイキングがそのままアメリカ大陸まで行ってしまったという話です。バイキングの伝説、赤毛のエイリークのサーガやグリーンランド人のサーガでは西暦1000年前後にアメリカ大陸に行き着いたノルウェー人が南に進み、広大な草原地帯に行き付いた。その地をヴィンランドと名付けた事が記述されています。
1960年、カナダのニューファンドランド島ランス・オ・メドーで、当時のノルウェー人の居住地の遺跡が発見されていることで明らかです。
考古学者の調査では、コロンブスよりも500年ほど前の遺跡だという事です。住居や道具などが発見されているため、間違いないでしょう。

ノルウェー人は結局ヴィンランドに定住することは出来ませんでした。現地で亡くなるか、グリーンランドに引っ越すか、の、どちらかでした。その500年後にアメリカ大陸に到達したのがクリストファー・コロンブスという訳です。

コロンブス以降、スペイン人が次々にアメリカ大陸に渡り、残虐な侵略を始めました。コロンブス自身がネイティブ・アメリカンに対する殺戮、虐殺を繰り返しましたが、コロンブスの後継者はもっと残酷でした。主に中米から南アメリカにかけた地域でスペイン人たちは暴れました。征服者たちはコンキスタドールと呼ばれています。コンキスタドールとは、スペイン語で、「征服者」という意味なのですが、正しくは「虐殺者」です。

最も有名なコンキスタドールが、メキシコのアステカ帝国を滅ぼしたエルナン・コルテス及びアンデスを中心とした巨大なインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロでしょう。

コルテスはキューバ総督のベラスケスの秘書でしたが、1519年にアステカ征服に向かいました。メキシコに上陸したスペイン軍はアステカの首都のテノチティトランに進撃。スペイン軍は途上の原住民を虐殺しながら進み、最終的にはアステカを滅ぼします。

コルテスの軍がどれほど残虐で陰惨だったかは、スペインのカトリック神父のラスカサスがインディアスの破壊についての簡潔な報告で、克明に記録しています。

コルテス以降、スペイン人は支配領域を広げ、先住民の文化、宗教、伝統を徹底的に破壊し、人々を奴隷として酷使し、死に追いやる経済が成立しました。言葉も奪われました。

コルテスのアステカ征服の十年後、スペインの軍人、フランシスコ・ピサロが、ペルーを中心に広大な地域を支配していたインカ帝国を滅ぼします。決定的な戦いは1532年のカハマルカの戦いです。ペルー北部にカハマルカはあります。標高2700メートルの高地で、今ではペルーのカハマルカ県の県都(けんと)となっています。太平洋の海岸から、200キロほど内陸に入った盆地です。ピサロの侵略軍は当時のスペインの拠点があったパナマから、今の国名で言えばコロンビア、エクアドルを海岸沿いに南下し、ペルーに入りました。

当時のインカ帝国にも軍隊はありました。カハマルカでは、インカ皇帝アタワルパが実に8万の大軍を率いてピサロ達を待ち構えていました。スペイン勢はわずか166名のならず者がピサロに率いられていただけでした。ピサロ率いる兵馬は鉄と銃で武装しており、アタワルパ軍を圧倒しました。スペイン側に殺されたインカ兵は7000人以上、皇帝アタワルパも捕虜にされ、後に残虐なやり方で処刑されました。スペイン側の勝利の理由ですが、まず武器が違っていた事。インカ帝国には鉄の精錬技術がなく、石や青銅製の棍棒、あるいは木製の武器でした。対するスペイン勢は、鋼鉄の剣に加え、銃で武装していました。またアメリカ大陸には馬が存在せず、インカ帝国の兵士たちは騎馬を初めて見ました。防具もスペイン側は鉄の鎧、兜。対するインカ側には鉄製の防具がなく、騎馬で突っ込んでくる鉄の固まりに立ち向かいようがありませんでした。

鉄の兵器で戦うような機会が、アメリカ大陸ではなかったから、このような大敗になってしまった訳です。ユーラシアでは、紀元前15世紀頃に、肥沃な三日月地帯を支配したヒッタイト帝国以降、鉄器が一気に広まりました。人々が移動しやすいユーラシアでは、当然ながら戦乱が絶えず、武器が進歩して、かつ伝播せざるをえなかったわけです。

もっとも、アメリカ大陸の先住民の命を最も奪った兵器は、鉄の剣でも銃でもありません。
スペイン人が持ち込んだ史上最悪の兵器、疫病がアステカやインカ、その他、アメリカ中の先住民の大半を片っ端から死滅させました。ユーラシアから隔離されていたアメリカの先住民には疫病に対する抗体がなかったからです。コロンブスが西インド諸島に到達した時点から南北アメリカで猛威を振るうようになりました。特に最悪の兵器として機能したのが、天然痘です。当時アメリカに入った西洋人の多くは天然痘ウィルスの保菌者でした。ところが、南北アメリカの先住民は、天然痘に対して、完全に無防備で、結果、繰り返される天然痘の大流行で、南北アメリカ大陸に住む先住民を絶滅に近い状況にまで追い込んでしまいました。

最終的に、南北アメリカ大陸に住む先住民の95%の人達が亡くなってしまった訳です。

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