倭の五王 第一回



「倭の五王」(わのごおう)とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の事を言います。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)の南朝(なんちょう)の宋(そう)(420年-479年)に朝貢(ちょうこう)したとされます。

ちなみにこの宋は趙匡胤(ちょう きょういん)が建国した宋とは違いますので。支那の場合、建国した人が最初に封じられた土地の名前が帝国の名前になる場合が多いためです。

五人の天皇が宋で勝手な名前で呼ばれていたため、倭の五王がどの天皇の事なのかについて諸説存在しています。讃が履中(りちゅう)天皇、珍が反正(はんぜい)天皇、済が允恭(いんぎょう)天皇、興が安康(あんこう)天皇、武が雄略(ゆうりゃく)天皇ではないか、と言われています。讃を仁徳(にんとく)天皇とする説もあります。中でも、特に武が雄略天皇であるという説はかなり有力視されています。

時代はかなり遡り、縄文時代から話を始めますが、沖縄の北谷町(ちゃたんちょう)で縄文式土器のかけらが見つかったという話は、以前の動画でお話したことがありますが、東北で作られた土器が沖縄で見つかるくらいですから、縄文人は当然の事ながら、玄界灘(げんかいなだ)を越えて、朝鮮半島南部にも出没していました。1970年代の調査で、朝鮮半島南部の東三洞貝塚から膨大な縄文式土器や九州産の黒曜石(こくようせき)が発見されました。黒曜石は交易品だったのでしょうが、土器までを舟で運ぶわけがないので、当時すでに多くの縄文人、倭人が朝鮮半島に住みつき、土器を焼いていた、と考えるのが当たり前でしょう。

朝鮮半島南部の倭人の国は、伽耶(かや)もしくは加羅(から)と呼ばれていました。
「魏志倭人伝」にも狗邪韓国(くやかんこく)という倭人の国が朝鮮半島南部に存在していたとあります。「魏志韓伝」には次のように書かれています。
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓(ばかん)と言い、二は辰韓(しんかん)と言い、三は弁韓(べんかん)と言う。辰韓はいにしえの辰国(しんこく)である。」馬韓とは後の百済(くだら)、辰韓が後の新羅(しらぎ)、弁韓が両国に挟まれた半島南部なのですが、「魏志韓伝」には、朝鮮半島南部は倭国だった、と書かれています。「魏志」が書かれた頃の倭国とは女王の国「邪馬台国」のことです。という事は、邪馬台国の勢力範囲は朝鮮半島南部までであった事になります。少なくとも、「魏志」の作者は、そう思っていたという事です。

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