今の政治家に爪の垢を煎じて飲ませたい仁徳天皇の仁政 前編



仁徳天皇は聖帝(ひじりのみかど)と称され、その御代(みよ)は「聖(ひじり)の御代(みよ)」とも呼ばれておりますが、一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれています。

難波高津宮(なにわ、こうづぐう)に都を移し、武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫にあたる石之日売(いわのひめ)を皇后としました。

「日本書紀」によると、仁徳天皇は幼いころから聡明で英知であり、容貌、見た目が美しく、壮年至ると心広く、恵み深かった、とされています。

日本人が自国の歴史を学ばなくなっていったため、保守系の人達でも、仁徳天皇といえば、「民の竈(たみのかまど)」と天皇陵しか思い浮かばなくなっていますが、特に皇后が嫉妬深い人物だったため、女性関係に悩むことになる、等、興味深いエピソードも少なくありません。

一定の役割をもって大和王権に奉仕することを義務づけられた大王(おおきみ)直属の集団である御名代(みなしろ)を定め、朝廷の仕事分掌の体制である部民制(べみんせい)を整備し、
茨田堤(まむたのつつみ)と茨田三宅(まむたのみやけ)、丸邇池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を造り、また難波堀江を堀って海に通し、また小椅江(おばしのえ)を堀り、また墨江津(すみのえのつ)を定めました。

仁徳天皇の時代は大阪の治水に注力しています。日本は自然災害の非常に多い国で、梅雨や秋の長雨の大雨によって川が氾濫して、田畑が大変な事になると、生活がおかしくなってしまいます。現代の日本人は「天皇が絶対的権力」を持っていると思いがちですが、そういうことは無く、この時代では治水工事は直接、天皇の権力基盤に影響する大事な仕事だったわけです。

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