応神天皇の御代



応神天皇の御代(みよ)、朝廷にて宮廷闘争が始まりました。建内宿禰(たけうちのすくね)を百姓の監察のために筑紫へ遣わした際、その弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が兄を廃そうとして天皇に讒言しました。それは建内宿禰が筑紫と三韓を率いて天下を奪おうとしているというものでした。建内宿禰は神功皇后の新羅出兵や天皇の即位に尽力した功臣です。ところが天皇は甘美内宿禰を疑わず建内宿禰を誅殺するため使いを出しました。驚き嘆いた建内宿禰でしたが、真根子(壱伎直祖)という者が自ら進み出て身代わりとなって死にました。建内宿禰はひとり悲しみながらも南海を通って帰国し天皇の前で甘美内宿禰と抗弁して争いました。判断がつかなかった天皇は磯城川のほとりに出て探湯で二人を戦わせることにしました。建内宿禰が勝ち、敗れた甘美内宿禰は兄に殺されそうになりました。命だけは天皇の勅によって救われましたが、その身は紀直らの祖に隷属民として授けられたという事です。

宮廷闘争が起こるという事は、ようやく大和王朝も本格的なものになってきたという事でしょう。これまでは天皇の地位を争う闘争はありましたが、臣(おみ)が権力闘争をしたことはありませんでしたから。

即位2年、仲姫命(なかつひめのみこと)を皇后として大雀命(おほさざきのみこと)(仁徳天皇)らを得、他にも多くの妃や皇子女(おうじじょ)がいました。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売(みやじ、やかわえひめ)を娶り菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と八田皇女(やたのひめみこ)を得ました。在位中には様々な渡来人の来朝がありました。韓人には池を作らせたほか蝦夷(えぞ)や海人(かいと)を平定して山海の部民(さんかいのべみん)を定めました。名のある渡来人には弓月君(ゆづきのきみ)、阿直岐(あちき)、王仁(わに)、阿知使主(あちのおみ)といった人物がおり、弓月君は秦氏(はたうじ)の祖と言われています。『古事記』によると和邇吉師(わにきし)(王仁)によって「論語」と「千字文」、すなわち儒教と漢字が伝わったと言われています。]。また即位37年、阿知使主と子の都加使主(つかのおみ)は縫製(ほうせい)の女工を求めるため呉(ご)(東晋(とうしん)あるいは宋(そう))に派遣されたと言われています。即位40年、大雀命(おほさざきのみこと)と大山守皇子(おおやまもり の みこ)に相談の上で菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を立太子とします。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩じたと言われております。

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