古代史上最大のヒロイン神功皇后 第十一回



忍熊皇子(おしくまのみこ)が入水した同年10月、神功皇后(じんぐうこうごう)は群臣に皇太后と認められました。この年が摂政元年(西暦368年)とされています。摂政2年11月8日、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)を河内国長野陵に葬いました。摂政3年1月3日、品陀和氣命(ほむだわけのみこと)を太子とし、磐余若桜宮(いわれのわかざくらのみや)に遷都しました。摂政13年、2月に太子が武内宿禰(たけしうちのすくね)に連れられて越前(えちぜん)国、角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひのおおかみ)に参拝。笥飯宮(けひのみや)出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、都に戻り酒宴が催されました。

その時、神功皇后が品陀和氣命(ほむだわけのみこと)に読んだ歌があります。

「許能美岐波(このみきは) 和賀美岐那良受(わがみきならず) 久志能加美(くしのかみ) 登許余邇伊麻須(とこよにいます) 伊波多多須(いはたたす) 須久那美迦微能(すくなみかみの) 加牟菩岐(かむほき) 本岐玖琉本斯(ほきくるほし) 登余本岐(とよほき) 本岐母登本斯(ほきもとほし) 麻都理許斯美岐叙(まつりこしみきそ) 阿佐受袁勢(あさずをせ) 佐佐(ささ)」

現代語の訳は「この神酒は私は作らず、奇しき酒の司、常世に坐す少名御神が祝ぎ狂い、祝ぎ回り、 進呈され届いた神酒ですのよ。どうぞ飲み干しなさいませ。さあ。」という意味ですが、建内宿禰(たけうちのすくね)が皇子に代わって飲み、返礼しています。

「古事記」では、この酒の話の後、すぐ応神天皇の御代となります。「古事記」では「神功皇后の時代」という書き方はされていませんが、まだ応神天皇は幼児でしたので、少なくとも応神天皇の初期の時代は、神功皇后や皇后を補佐する武内宿禰らが政務を担ったのは間違いないでしょう。いずれにせよ、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、神功皇后、応神天皇(おうじんてんのう)の御代に、奴国(なこく)、伊都国(いとこく)、末盧國(まつらこく)、など、旧邪馬台国の勢力範囲が大和王朝の支配下に入ったことは間違いなく、大陸との窓口であった九州北部を完全に治めました。

コメント


認証コード5344

コメントは管理者の承認後に表示されます。