古代史上最大のヒロイン神功皇后 第十回



結局、狩の占いの通り、忍熊王(おしくまのみこ)は勝てなかったのですが、香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)という二人の皇子(おうじ)が亡くなり、応神天皇は立太子つまり皇太子となりました。応神天皇が皇太子になられたのは、まだ三歳だったので、権力は摂政である神功皇后(じんぐうこうごう)が握っておりました。

神功皇后は開化天皇(かいかてんのう)に繋がる男系の女子なので、明治時代までは第15代天皇、初の女帝、として扱われておりました。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)崩御から応神天皇即位まで約70年間(春秋歴でなければ35年)、大和(ヤマト)王権に君臨していましたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されたため、その約70年間(35年)は天皇不在ということになります。

「日本書紀」は一代の天応が一巻の構成になっていますが、第八巻が仲哀天皇で第九巻が神功皇后、第十巻が応神天皇(おうじんてんのう)です。皇后で一巻の構成になっているのは、神功皇后、ただ一人です。

「古事記」や「日本書紀」には、香坂王と忍熊王の反逆や神功皇后側の姑息な戦い方なども正直に記載されており、綏靖天皇(すいぜいてんのう)即位のいきさつや垂仁天皇(すいにんてんのう)と沙本毘売命(さほひめのみこと)の話など、と同じく、皇室の歴史を輝かしいものにしたいのなら残さない方が良かったであろう話も普通に書かれています。事実だからでしょう。

ちなみに「日本書紀」の筆者は、卑弥呼と神功皇后の事績を一緒にしようとしたようにも感じられ、年代がずれていたりもします。
百済(くだら)の近肖古王(きんしょうこおう)が死んだのが西暦375年。「古事記」にも「日本書紀」にもあるように、近肖古王と神功皇后は同時代の人ですが、倭の女王が魏に朝貢(ちょうこう)したのが西暦238年なので、

「日本書紀」の筆者は、「魏志倭人伝」に相当に影響されたようで、強引に卑弥呼と神功皇后の時代を重ねようとしたため、「日本書紀」では神功皇后前後で時代が伸びています。なので「日本書紀」の年代は必ずしも当てに出来ないものになっています。長浜浩明著の「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ」では、春秋年で計算すると、神功皇后は西暦340年ごろの生まれで、17歳で応神天皇を産み摂政となった、とされています。

もっとも、「古事記」では、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の次の項(こう)がいきなり応神天皇(おうじんてんのう)になっており、香坂王と忍熊王の死後、すぐに応神天皇が即位しています。神功皇后が摂政として君臨して天皇の空位時代があったのか、神功皇后の御代(みよ)があったのか、いずれも考えられます。

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