織田信長が本願寺と11年も戦って勝てなかったのはなぜか?後編



信長の言葉は残っていませんが、秀吉がとった後(のち)の行動を見ると、恐らく信長は、上町台地は鉄壁の地形であり、天下に覇を唱えるには相応しい場所であることを知っていて、それを秀吉もわかっていたという事でしょう。

天下の戦上手(いくさじょうず)の徳川家康も、この地形に苦しみます。

大坂夏の陣の布陣図を見ると、徳川軍は大坂城に向かって、前を向いて陣取っています。普通はこういう配置にはならず、正面ではなく、左右から行ったり後方から攻めますが、これは上町台地の地形が平面図で表されているからで、尾根の上で戦っているから、どうしても正面を向くしかなくなります。ということは、極めて細い道で、両陣営は戦ったということです。
西軍は細い尾根道を守れば、敵の攻撃を簡単に守れます。しかも、城の周辺は全部沼地でした。兵士はわずかでも泥にハマったら、身動きも出来ませんでした。そこを弓矢で射られてしまいます。
なので、大坂夏の陣は、非常に徳川を苦しめた事が、布陣図から読み取ることが出来ます。

つまり、本願寺勢が11年も戦って信長に負けなかったのは、この泥地に囲まれた上町台地に守られていたからで、高い尾根にありましたが、地下水も豊富だったからです。さすが、「水の都、大阪」というわけですね。
戦いが籠城の長期戦になると、一番大切なのは水ですが、水があれば、食糧は何とか作ることが出来ます。

そんな場所だから、徳川の精鋭が、豊臣の劣勢の弱い陣に向かって戦ったにも関わらず苦労したわけです。

この上町台地は、全国統一する上で、極めて重要な地で、守るには鉄壁で、陸路で西国に行きやすく、瀬戸内海も近い。西国大名を制覇する拠点にピッタリです。また淀川に沿って進んでいけば、あっという間に京都です。朝廷をかかえてしまうのにも適しています。

織田信長が本願寺と11年も戦って勝てなかったのはなぜか?

の答えは、

この上町台地の湿地帯に囲まれていたという地形と豊富な地下水があったから、です。

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