織田信長が本願寺と11年も戦って勝てなかったのはなぜか?前編



上町台地とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地ですが、台地が大阪平野の真ん中に突き出していて、その先端に大坂城があります。大坂城になる前の石山本願寺は、本願寺の居城でした。織田信長は、ここを滅ぼそうと本願寺一党と11年も戦い続けましたが、結局勝てませんでした。当時、日本最強の軍団だったにもかかわらず、です。

本願寺勢の強い信仰心が信長軍に勝っていたから、という事もあるのかもしれません。
ところが、本願寺の強さの秘密は別にありました。

「神武東征」の動画でも説明していますが、そもそも、紀元前50年頃までは、大阪平野は海だったわけです。その後、縄文海進を経て、陸地が出来ていきます。河内もんというのは川の中に生きていたということですね。「水の都」と呼ばれるわけです。
その先端に飛び出しているのが、上町台地、北から流れてくる淀川、南から流れてくる大和川。

縄文時代に、この大坂湾がだんだん土砂にうずまって、湿地帯の大坂平野になっていったわけです。

なので、令和の今でさえ、ちょっと雨が降ると、田畑がベトベトになるということは、よくおわかりだと思います。

つまり、あの上町台地は湿地帯に囲まれていました。これがいかに強いか。これは、戦国時代当時の戦争にしてみれば、鉄壁の要塞でした。
実際、徳川家康も大坂城に苦しめられます。大坂城のある地形との闘いだったと言えます。真田幸村という訳ではありませんでした。

1580年に、信長が、本願寺の顕如(けんにょ)と和睦した際に出した、唯一の条件が、上町台地から出て行って欲しい、という事でした。それで、本願寺は京都に行くことになりました。その条件に従った本願寺に対し、信長は京都を攻めることはありませんでした。なぜかというと、上町台地が欲しかったからです。

その後、本能寺の変があり、この上町台地を取った後、すぐに信長はこの世を去ります。

その後、羽柴秀吉によって、大阪城が築城されます。

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