古代史上最大のヒロイン 神功皇后 第六回



「古事記」では神功皇后(じんぐうこうごう)の治世は省略されており、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)からいきなり応神天皇(おうじんてんのう)の御代になっています。「日本書紀」における神功皇后の御代が、「古事記」では応神天皇の御代となっているわけです。

「日本書紀」によれば、「新羅(しらぎ)から帰国した神功皇后(じんぐうこうごう)が筑紫の地で、大鞆和気命(おおともわけのみこと)、後の応神天皇を産み落とされ、その土地を「宇美」(うみ)と呼ばれることとなった」とあるにも関わらず、卑弥呼の時代の「魏志倭人伝」には不弥国(ふみこく)と呼ばれていた国があります。その上、「日本書記」の応神天皇の項には、「天皇は女王が新羅(しらぎ)を討たれた年に、筑紫の蚊田(かだ)で生まれた」とあります。福岡県には蚊田という場所は、小郡市(おごおりし)と糸島市(いとしまし)の二か所にあります。いずれも佐賀県の近くですが。というと、「神功皇后が応神天皇を産んだので、「宇美」(うみ)と呼ばれることになった」というのは眉唾ではないでしょうか。

「宇美」に限らず「日本書紀」の神功皇后の記述には、神話的なエピソードが少なくありません。神功皇后が新羅(しらぎ)征伐の際に、「古事記」では、海にいる魚という魚が集まって軍船を運んだ、とか、新羅に近づくと、軍船が押し進む勢いで打ち付けた波が、新羅の国の半分にまで達した、とか、「日本書紀」では、新羅出兵の前に、皇后が飯粒を餌にして、海で鮎を釣った、とか、博多湾に注ぐ中川の水を、神に捧げる水田に引き入れようとしたものの、大岩で塞がっており、水路を通せなかったため、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じ、天津神・国津神(あまつかみ、くにつかみ)を祀り祈りを捧げたところ、たちまち雷が落ち、水を通す事が出来た(裂田の溝(さくたのうなで))、など。こういう話を現実離れしている、と言って、歴史学者は「神功皇后はいなかった」説とついでに「三韓征伐もなかった」説を蔓延させてきた経緯があります。

漢の劉邦は赤い龍の子供、という事になっているし、モーゼは海を割り、キリストは死の三日後に蘇っています。歴史上の人物に権威を持たせるために作られたエピソードなのかも知れませんが、いなかったという証拠ではありません。

それに、神功皇后のエピソードは、絶対に嘘である、とは言えないものばかりです。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は琴を弾いている最中に心臓発作を起こしたのかもしれないし、新羅(しらぎ)征伐の際に、魚が海面を覆ったのはトビウオの大発生かもしれないし、新羅に着いた際に、波が陸地に押し寄せたのは津波、海で鮎が釣れたのは全くありえないという証明もできません。

裂田の溝(さくたのうなで)も、福岡県那珂川市(なかがわし)に存在しており、那珂川市の安徳台遺跡からは、弥生時代の数々の遺跡、奈良時代の大建築物群、室町時代の館跡、などが発見されていますが、特に弥生時代の遺跡としては、日本最古の製鉄工房の跡地に加え、130軒を超える住居跡など、様々な考古学的な発見がなされていますが、そこに裂田の溝があります。

裂田の溝は日本最古の農業用水路として有名で、神功皇后をご祭神とする裂田神社(さくたじんじゃ)の西側を迂回するように流れています。しかも一部が固い花崗岩(かこうがん)の岩盤の裂け目を通っています。発掘調査の報告書によると、裂田の溝は裂田神社の付近で、水路の両側に未風化の花崗岩が露出しています。未風化の花崗岩は固い岩の塊で、コア・ストーンと呼ばれています。つまりは重機などを使った土木工事で岩盤を砕かない限り、那珂川(なかがわ)の水を水田に引くことは不可能だったわけです。実際に雷が落ちて岩盤が割れたのかどうかはわかりませんが、大岩を割らなければ、裂田の溝が建設できなかったのは確実だ、という事です。

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