織田信長が比叡山を焼き討ちした理由 



桓武天皇の逸話から始めますが、この話をしないと、なぜ、信長が比叡山を焼き討ちしたのか、という事がわからないからです。

征夷大将軍というのは、源頼朝(みなもとのよりとも)よりもずっと前、709年の奈良時代から、ずっと存在していました。巨勢麻呂(こせ の まろ)が最初の征夷大将軍です。その後、790年に、大伴 弟麻呂(おおとも の おとまろ)、797年に坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)等が続きます。

恐らく、東国(とうごく)にはものすごく強い部族がいたものと思われます。
それを成敗する、というのが、歴史的にもある訳です。

奈良盆地から、長岡京に遷都して、桓武天皇は、東にいる「夷」(い)をとても恐れ、絶対に通過する逢坂、京都と大津を結ぶ尾根に注目しました。現在でも、京阪や国道が走っていますが非常に狭く、新幹線もこの真下を通っていて、つまり、日本の動脈は、全てこの逢坂の下を通っています。

この琵琶湖と京都を結ぶ逢坂の北側に、桓武天皇は比叡山の根本中堂、延暦寺を整備していきました。その比叡山に僧侶を配置しました。

平安時代に、白河上皇が「自分のままならないものは賀茂川の水(つまり洪水)、双六の賽の目、山法師(やまぼうし)(つまり比叡山の僧侶たち、僧兵です)」と述べていますが、比叡山の僧侶たちは逢坂を守るための兵隊、都を守るための防御装備だったわけです。

信長は滋賀から京都へ行く時に何を恐れたのでしょうか?

僧侶たちですよね。これは実は、朝廷を守るためにいました。逢坂を超える北からの侵入者を防ぐための武装集団でした。

信長ほど、山道の弱さを知っていた人間はいません。なぜなら、自分自身が、1560年の桶狭間の戦いで、数では10倍以上の今川義元軍を倒したからです。山の上で戦列が伸び切ったところを、横から一気に攻められては何もできない事をよく知っていました。前後にいる兵隊たちは何も出来ないため、その大将隊だけを狙うことが出来るし、横から討つ事も出来る。天下の大大名である今川義元が、尾張の半分も制圧していない織田のうつけにやられた、というのは、当時の人たちにとって、極めて衝撃的な事件だっただろうと思われます。

つまり、信長はこの桶狭間の戦いで今川を倒したように、逆に、自分はあの逢坂で比叡山の僧侶たちに打ち取られるという恐怖をもの凄く感じていたのではないでしょうか。

なので、信長は京都に自由に行くためにも、あの比叡山を焼き討ちにせざるを得なかったのではないでしょうか?

よく小説やテレビなどで語られている
「比叡山の僧侶たちは酒池肉林でふしだら極まりない」だとか、
「浅井、朝倉軍と内通していた」などと、
いうものは、信長側から見た、比叡山側の一方的にネガティブな歴史なのでしょうか?

そうではなくて、信長はあの比叡山の位置が怖かったのではないか、逢坂の地形が怖かったので、焼き討ちにせざるを得なかったのではないでしょうか?

信長の比叡山焼き討ちは、信長の個人的な恨みつらみ、または頭に血が上ってやった、などというものではなく、あの比叡山を焼き討ちにしなければ、自由に上洛できなかったから、冷静に、信長は比叡山を攻撃したのです。

桓武天皇が遷都して長岡京に来た時、その避けるべき方角である鬼門は逢坂でした。京都の鬼門はどこだ、と聞かれれば、これも逢坂です。比叡山は、いわば、京都を守った守護神だったとも言えるでしょう。

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