織田信長が比叡山を焼き討ちした理由  後編



信長ほど、山道の弱さを知っていた人間はいないからです。なぜなら、自分自身が、1560年の桶狭間の戦いで、数では10倍以上の今川義元軍を倒したからです。山の上で戦列が伸び切った隊列を、横から一気に攻められては何もできない事をよく知っていました。前後にいる兵隊たちは何も出来ないため、その大将隊だけを狙うことが出来るし、横から討つ事が出来る。天下の大大名である今川義元が、尾張の半分も制圧していない織田のうつけにやられた、というのは、当時の人たちにとって、極めて衝撃的な事件だっただろうと思われます。

つまり、信長はこの桶狭間の戦いで今川を倒したように、逆に、自分はあの逢坂で比叡山の僧侶たちに打ち取られるという恐怖をもの凄く感じていたのではないでしょうか。

なので、信長は京都に自由に行くためにも、あの比叡山を焼き討ちにせざるを得なかったのではないでしょうか?

よく小説やテレビなどで語られている
「比叡山の僧侶たちは酒池肉林でふしだら極まりない」だとか、
「浅井、朝倉軍と内通していた」などと、
いうものは、信長側から見た、比叡山側の一方的にネガティブな歴史なのでしょうか?

そうではなくて、信長はあの比叡山の位置が怖かったのではないか、逢坂の地形が怖かったので、焼き討ちにせざるを得なかったのではないでしょうか?

信長の比叡山焼き討ちは、信長の個人的な恨みつらみ、または頭に血が上ってやった、などというものではなく、あの比叡山を焼き討ちにしなければ、自由に上洛できなかったから、冷静に、信長は比叡山を攻撃したのです。

桓武天皇が遷都して長岡京に来た時、その避けるべき方角である鬼門は逢坂でした。京都の鬼門はどこだ、と聞かれれば、これも逢坂です。比叡山は、いわば、京都を守った守護神だったとも言えるでしょう。

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