邪馬台国はここだ!ついに秘密が明かされる 



「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)を普通に読むと、大和王朝の支配が及んでいなかった九州の様子が、詳細かつ克明に書かれています。
特に邪馬台国(やまたいこく)に服属していた九州北部の国については、考古学的な事実とも適合しているため、かなり真実に近いと思われます。

最も劇的な発見は、福岡市の志賀島(しかのしま)で、「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」という金印が発見された事です。支那の後漢の正史である『後漢書』(ごかんじょ)にも載っている、後漢の光武帝(こうぶてい)が建武中元(けんむちゅうげん)2年(57年)に奴国(なこく)からの朝賀使(ちょうがし)へ(冊封(さくほう)のしるしとして)賜った印の事です。
発見されたのは江戸時代なのですが、金印が出土した以上、奴国が存在していた事は間違いありません。そして、「魏志倭人伝」には奴国が、しょっちゅう登場しています。

もちろん、「魏志倭人伝」の主役は、女王の国の邪馬台国ですが、奴国は女王の国に至る途中にあります。

帯方郡(たいほうぐん)(現在の北朝鮮西南部)から女王の国までのルートを改めて整理してみましょう。

帯方郡(北朝鮮南西部)から女王の国に到達するまで。全部で12000里あまりになる。
倭の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)(現在の釜山(ぷさん))に到達するまで7000里。
1000里あまりの海を渡ると対馬国に到達する。
そこから、また南に行って、千里あまりの海を一つ渡る。
一大國(いちだいこく)(壱岐)に到達する。
また一つ1000里余りの海を渡ると、末盧國(まつらこく)(今の長崎県松浦市)に到達する。因みに、松浦市の古称は、「まつら」です。

この時点で、邪馬台国畿内説はファンタジー以外の何物でもないことがわかります。松浦まで、全体の距離の6分の5を消化しているからです。さらに、

東南に陸地を行くこと500里で、伊都国(いとこく)に到達する。東南に行って、奴国(なこく)に到達するまで100里ある。

伊都国は現在の福岡県糸島市。地名の九割は1000年呼び方が変わらないと言われますが、本当に実感できますね。奴国の位置が志賀島(しかのしま)なので、松浦市との中間となると、糸島市以外、考えられません。

東に行って、不弥国(ふみこく)に到達するまで100里ある。不弥国(ふみこく)は神功皇后の逸話にも登場しますが、現在の福岡県糟屋郡宇美町ですね。ここまでで、10700里。
残りはわずか1300里。「魏志倭人伝」でいう1里は、中国史で一般的な400mよりも遥かに短いことがわかります。100m以内でしょう。古代中国の数学書、「周髀算経(しゅうひさんけい)」によると、1里は約76mと計算されているとの事。

ということは、女王の国は、福岡県糟屋郡宇美町から、半径100km以内だという事がわかります。もちろん道路も整備されていなかった時代なので、直線距離のはずがありません。山々を縫って進む事になります。北に行けば海の中になるし、

女王の国は福岡県糸島市に一大率(いちだいそつ)を置き、北の国々を観察させていました。
さらに女王の国の南には狗奴国(くぬこく)があり、男子が王となっており、女王の国と対立していた、とあります。狗奴国とは、もちろん熊襲(くまそ)国でしょう。長官の狗古智卑狗(くこちひこ)とは、熊本県菊池郡を領有していた菊池彦の事でしょう。

これらのことから推測すると、邪馬台国の位置は、現在の福岡県みやま市一帯で間違いないものと思われます。旧、山門郡(やまとぐん)ですね。

「魏志倭人伝」の地理や政治情勢に関する記述が相当に正しいことが理解できたものと思います。

不弥国(ふみこく)から女王の国までの経路について「水上を航行して10日、陸上を航行して1ヶ月かかる」とされているからです。「宇美町からみやま市まで水路で10日、陸路で1ヶ月もかかるのはおかしい」という事だったのですが、古代の中国の使者は輿(こし)に乗ってゆっくり移動し、途中で何度も接待を受け、水路だと川を遡(さかのぼ)る形になってしまうため、時間がかかっても不思議で何でもありません。舗装されているわけではないので。

しかも女王の国の北には、20ヶ国以上もの服属国があり、当然、各国に滞在しながら進むため、1ヶ月かかるのは、むしろ当然のことだと思われます。

飯塚市などの筑豊(ちくほう)地域や北九州市などは、女王の国には属しておらず、別の倭族の勢力に支配されていました。

「魏志倭人伝」に「女王の国の東の海を渡って1000里あまり行くと、また国がある。皆、倭人の種族である。」とありますが、これこそ、大和王朝なのかもしれません。

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