古代史上最大のヒロイン 神功皇后 第三回



まずは、「古事記」「日本書紀」から、神功皇后の事績を振り返ってみましょう。

倭建命(やまとたけるのみこと)の父の景行天皇(けいこうてんのう)が崩御され、4番の皇子が第13代天皇の成務天皇(せいむてんのう)として即位なされました。成務天皇については、「古事記」にも「日本書紀」にも記述が少ないので、毎度のように、「実在性は定かでない」などと言われておりますが、景行天皇と同じく、武内宿禰(たけしうちのすくね)を大臣(おおいぎみ)に任命しました。武内宿禰は第8代天皇の孝元天皇の孫です。

さて、成務天皇が崩御なされると、兄である倭建命の息子である帯中日子(たらしなかつひこ)が、第14代、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)として、即位なされます。成務天皇の甥に当たります。今上天皇(きんじょうてんのう)の次に、悠仁親王が即位なされるような関係です。ただ、兄の息子と弟の息子という違いがありますが。

仲哀天皇は、初め、大中津比売命(おおなかつひめ)を妻に迎え、香坂王 (かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)という二人の皇子(おうじ)が産まれました。その後、天皇は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后とします。幼少期から聡明で叡智(えいち)であらせら、要望も優れていた神功皇后です。

仲哀天皇は頻繁に各地に遠征しており、敦賀に氣比神宮を建て、その地で仲哀天皇は神功皇后と暮らしました。
その後、仲哀天皇は淡路島、紀伊と向かいましたが、九州の熊襲が反乱を起こしたのを聞き、筑紫に向けて出発しました。敦賀にいた神功皇后を呼び寄せ、筑紫で合流しました。

仲哀天皇が筑紫の香椎(かしい)に宮(みや)をお作りになって、熊襲の国を討とうとされる時に、ご神託を聞くことになりました。天皇が琴を弾いて、神功皇后が神懸(かみが)かりをなさいました。武内宿禰(たけのうちのすくね)が審神者(さにわ)をしました。審神者とは、降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。

神功皇后が神を招き寄せて、託宣をしました。

「西の方に国あり。金銀を本として、目の炎耀(カカヤ)く種々(クサグサ)の珍(ウヅ)の宝、多にその国にあり。吾、今その国を帰せ賜はむ」

そこで天皇が答えて申し上げました。

「高き地(トコロ)に登りて西の方を見れば、国土(クニ)は見えず。ただ大海のみあり」

この神託は嘘だと考えて、琴を弾くのをやめて、黙ってしまいました。するとこの神はひどく怒り、

「凡(オホヨ)そこの天下(アメノシタ)は、汝(イマシ)の知らすべき国にあらず。汝は一道(ヒトミチ)に向ひたまへ」

と言われました。一本道とは死への道です。

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