我が国初のヒーロー 倭建命 第二回



さて、都に帰ってきた倭建命(やまとたけるのみこと)は、景行(けいこう)天皇に命令を果たした報告に行くと、今度は東の国々を討伐するよう命じられます。倭建命は仕方なく東に向かいますが、途中で伊勢にいる第11代垂仁天皇の第4皇女で伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)である叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ねます。倭建命は倭比売命に「私の事を早く死ねば良いとでも思っておられるのでしょうか?」と男泣きに泣きました。
倭比売命は心を痛め、八咫鏡(やたのかがみ)と共に、伊勢神宮に納められていた、三種の神器の一つ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を倭建命に授けました。更に、危ない事が生じたらこの口を開くよう、告げて、袋を一つ与えました。

とにもかくにも、大和王朝に逆らう勢力を次々に打倒していきました。そして、駿河国(するがのくに)で、国造(くにのみやつこ)から「荒ぶる神がいる」と欺かれた倭建命は、野中(のなか)で火攻(ひぜ)めに遭いました。倭建命は倭比売命の言葉を思い出し、そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、天叢雲剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて炎を退けました。この故事から、この剣は別名を「草那藝剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれます。
九死に一生を得た倭建命は、国造の屋敷に殴り込み、国造らを全て斬り殺して死体に火をつけ焼きました。そこで、そこを焼遣(やきづ、焼津)と呼ばれるようになりました。

その後、焼遣から三浦半島に進み、上総国(かずさのくに)に渡る際、走水(はしりみず)の海の神が激しい波を起こしたため、倭建命の船は進む事も退く事も出来なくなってしまいました。そこで、倭建命の后である弟橘比売(おとたちばなひめ)が自らの命に代えて、たたりを鎮めようと入水すると、防風は止み、波は自ずから凪いで、一行は無事に上総国に渡る事ができました。
それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり、弟橘比売命のことを思い、歌を詠みました。

さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも

七日後、比売の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めました。弟橘比売命の着物の裾が流れ着いたため、そこの地が、その後。袖ヶ浦と呼ばれるようになります。

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