崇神天皇と垂仁天皇の御代とは



第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)以降から、「古事記」や「日本書紀」に、神武天皇のように、エピソードがいっぱい載るようになっていきます。崇神天皇の時代、疫病が流行し、大勢の国民が死にました。「日本書紀」によれば、民の半ば以上が死んでしまったそうです。

嘆き悲しんだ崇神天皇は、神殿で祈りを捧げ、疲れ果てて床で眠っていると、夢の中に大物主神(おおものぬしのかみ)が現れました。

「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた、と「古事記」にありますが、崇神天皇は、大物主神の曾孫の孫の意富多々泥古を探し出し、奈良の三輪山に大神神社(おおみわじんじゃ)を建て、大神神社(おおみわじんじゃ)の神主としました。

崇神天皇の時代になると、大和王朝の勢力範囲が、北陸道や東海道など、近畿以外にも広がり始めます。崇神天皇は軍を派遣し、各地の豪族を帰順させ、天皇の異母系の反乱を鎮圧しています。戦争をすると記述が詳しくなる典型ですね。

続く、第11代天皇の垂仁天皇の時代になると、皇后の沙本毘売命(さほひめのみこと)の兄、沙本毘古王(さほひこのみこ)が天皇の暗殺を謀るが失敗し、垂仁天皇は自ら軍を率いて出陣します。すると、皇后の沙本毘売命が兄の立てこもる城に身を投じてしまいます。この時、既に沙本毘売命は垂仁天皇の皇子を身ごもっており、天皇の軍に取り囲まれた城の中で男の子を産みます。姫は息子を道連れにするのが忍びなく、天皇に息子を引き取るように頼みました。天皇は敏捷な兵士を差し向けて、息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが失敗し、兄は天皇の軍によって滅ぼされ、沙本毘売(さほひめ)も稲城の燃え盛る炎の中に身を投じてしまいます。

悲恋なのかもしれませんが、垂仁天皇にとっては、全く持って、名誉なエピソードではありません。義理の兄に妻を寝取られたようなものですから。

大神神社(おおみわじんじゃ)  奈良県桜井市三輪1422 

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