【衝撃】綏靖天皇即位の秘密



神武天皇の皇后、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)は、父親は大国主の魂の分身、大物主神(おおものぬしのかみ)と描かれています。

神武天皇は大和の地で伊須気余理比売(いすけよりひめ)と結婚しますが、実は日向国(ひむかのくに)にいた時代にも結婚しており、手研耳命(たぎしみみ の みこと)という皇子(おうじ)がいました。伊須気余理比売との間には、神八井耳命(かんやいみみのみこと)と神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、日子八井命(ひこやいのみこと)の三人の皇子(おうじ)がいました。

神武天皇が崩御すると、日向国(ひむかのくに)から、つき従っていた天皇の皇子、手研耳命は伊須気余理比売と結婚しました。義理の母なのですが、血縁関係のない母との結婚は何も忌むべきことではなかったのでしょう。今の道徳観で判断するのはやめましょう。
伊須気余理比売の正式名称は、比売多多良伊須気余理比売なのですが、多多良というのは古式製鉄の事なので、大製鉄会社のご令嬢だったのかも知れませんね。

その後、手研耳命は、神武天皇と伊須気余理比売との間に産まれた二人の弟を暗殺しようと謀(はかりごと)をめぐらせます。母親の伊須気余理比売からの連絡を受けた二人の皇子は、逆に手研耳命を討ち果たすべく、籠っていた片丘の大窨(おおむろ)に向かいます。先に神八井耳命が手研耳命を射殺そうとしますが出来ず、神渟名川耳尊が果たします。兄は神渟名川耳尊の武勇を讃え、天皇の位を譲ることにしました。

翌年の1月に、綏靖(すいぜい)天皇に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移します。同年7月、事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)と結婚。お二人の間に、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)(後の安寧(あんねい)天皇)がお産まれになられます。

「古事記」や「日本書紀」について、自虐史観に溢れた日本の歴史学者たちは、「皇統の正当性を示すための捏造だ」などと言っていますが、もし本当にそうだったとしたら、初代天皇がお隠れになった途端に、兄弟が殺し合った手研耳命のエピソードを記載する事はなかったでしょう。「古事記」や「日本書紀」では、2代の綏靖天皇から9代の開化天皇まで、細かいエピソードの記載が乏しいのですが、恐らく平和裏に、地元の有力者との婚姻関係を深めていって、勢力を地道に拡大していったのでしょう。欧州のハプスブルク家が、血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得していって、ヨーロッパ最大の勢力になっていったのと同じなのではないでしょうか?地味過ぎて、物語にはなりにくいですし。

それにしても、家系や宮殿、墓の位置、等の記載があるにも関わらず、どうして否定するのでしょうか?

しかも、そのような歴史学者は、業績もこと細かく残されていて、各地に史跡もあり、本人が詠んだ歌まで大量に残っている神武天皇までをも、「実在を信じる説はない」などと根拠を示さずに否定しているのですから、呆れますよね。

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