長命天皇の謎



「日本書紀」では、神武天皇は127歳まで生きていたことになっています。神武天皇以降も、100歳以上の長命天皇が大勢います。

もっとも、初期の天皇の寿命が異様に長い理由は、当時の支那人(しなじん)が普通に書き残しています。陳寿の「三国志」に、4世紀の歴史家、裴松之(はいしょうし)が、注記を残しており、そこに書かれています。「日本では、春の田植えの時に1年、秋の収穫の時に1年」、つまり1年を2年で数えていたという事です。「日本書紀」に書かれている百済王の即位年や没年と朝鮮の史書にある即位年や没年を比較しても、かなり信ぴょう性の高いものと思われます。百済とは4世紀から7世紀まで朝鮮半島南部に実在した国です。
北方の高句麗と後に半島を統一することになる新羅、そして日本の影響が強かった百済の三国の歴史が書かれているのが「三国史記」。「日本書紀」には、日本と関係の深かった百済の王族の記録が残されているため、「三国史記」の「百済本記」(くだらほんき)と突き合わせることで年代の特定が出来ます。

「日本書紀」に書かれている年代は、そのままでは「百済本記」の年代とは全く違っています。それが、「日本書紀」では、いわゆる春秋年、1年を2年で数えていたとすると、見事に整合性が取れます。「春秋年で西暦380年頃に百済の近肖古王(きんしょうこおう)が死んだ」と「日本書紀」にありますが、「百済本記」では、近肖古王の死は375年。これが春秋年を使わないと数百年もズレてしまいます。また同じ時期に、百済が七支刀を日本に献上しているのですが、これが石上神宮(いそのかみじんぐう)に実在しているのですが、七支刀に彫られている年代が西暦でいえば369年、「日本書紀」に春秋年を適用すると、西暦300年前後に百済が七支刀を日本に献上したことになっていて、ほぼ一致しています。

「日本書紀」の年代を適用すると、百済関係の年代が数百年ズレてしまうため、春秋年の信ぴょう性は相当に高いものと思われます。

春秋年を当てはめた場合、数年から数十年の誤差はあると思われますが、神武天皇が橿原で即位したのは紀元前70年ということになります。当時であれば、神武東征の記述通り実現可能です。裴松之(はいしょうし)の春秋年に関する記述が誤りだったとしても、「百済本記」との比較から、「日本書紀」の年代に関する記述が、おおよそ二倍になっていることがわかります。という訳で、歴代の天皇の寿命も半分で考えるべきでしょうし、大阪の地形から見ても明らかなように、日本の建国は紀元前50年よりも前、紀元前70年前後で間違いないものと思われます。。

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