神武東征 中編



今の東大阪市の古い呼び名は「盾津」(たてつ)と言いますが、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)の船団が白肩津(しらかたのつ)に停泊すると、地元の豪族である登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)の軍勢が待ち構えていて、ここで、戦いがあったことから、名づけられました。

那賀須泥毘古がなぜ軍を起こしたのかといえば、今の生駒市辺りに住む豪族でしたが、海を越えてきた一軍が自国を奪いに来たものと思い込んでいたからです。戦いでは那賀須泥毘古の放った矢が、五瀬命(いつせのみこと)に当たり、五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言われ、それで白肩津まで退却し、そこで盾を並べて士気を高めた、という故事から、この名前が付けられました。

南の方へ回り込んだのですが、那賀須泥毘古から受けた矢傷のために、五瀬命は紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと)に着いた所で、亡くなわれてしまいます。

神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、熊の姿の神が現われてすぐに消えましたが、その霊力により、神日本磐余彦天皇の軍全員が意識を無くしてしまいました。この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めました。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復しました。

この剣は、須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に使った十拳剣(とつかのつるぎ)の天羽々斬(あめのはばきり)、三種の神器の一つの天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と並んで、神代三剣(かみよさんけん)と呼ばれています。

ちなみに、布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)は、ご神体として、石上神宮(いそのかみじんぐう)に祀られております。ちなみに天羽々斬(あめのはばきり)も、石上神宮に祀られております。

神倭伊波礼毘古命が高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねたところ、高倉下によれば、高倉下の夢に天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかむすび)が現れ、二柱の神は建御雷神(たけみかづちのかみ)を呼んで、「葦原中国(あしはらのなかつくに)は騒然としており、私の御子(みこ)たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降(あまくだ)りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神(あまつかみ)の御子(みこ)の元に運びなさい」と言われました。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだということです。

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