神話の時代より前の日本について 前編



伊邪那岐神(いざなぎのみこと)と伊邪那美神(いざなみのみこと)は大八島(おおやしま)をお創りになったことは他の動画で解説しましたが、
この事は古代の日本人が、日本はいくつもの島によって成り立っている国であることを認識していた証拠であり、沖縄から北海道まで縄文時代の地層から同じ土器が出土していることから見ても、

そもそも本州はとんでもなく大きな島で、長さは約1500kmもあり、ヨーロッパでいえば、ドイツのベルリンからスペインのバルセロナまで、と、同じ距離です。にもかかわらず、当時の日本人は、島、であることを知っていたわけです。恐らく舟を使って、あちこちを行き来していたからわかっていたものと思われます。

実は、日本は神話の時代以前の縄文時代から「海の文化」だったことが、考古学上の発見物によって証明されています。例えば、縄文時代後期を代表する亀ヶ岡石器は、東北地方から北海道にかけて作られていましたが、西日本だけでなく、沖縄の北谷町(ちゃたんちょう)でも欠片が出土しており、北海道から沖縄まで、縄文人が普通に行き来していたことは明らかです。つまり日本神話にしても、縄文時代の海洋文化の延長線上にあることがわかります。
もちろん文献として残っているわけではありませんが、考古学の発見から、当時の日本民族が、日本は島国である事を認識していたことが分かっています。
ついでに話しておくと、世界で最も古い土器は、青森県の大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)から出土しており、16500年前のものです。無紋時だったのですが、14500年前の頃から、縄文式土器として有名な隆起線文土器(りゅうきせんもんどき)が表れています。
他のアジア、アフリカなどで発見されたもので最も古いものは、およそ9000年前、ヨーロッパでは8500年前のものが最も古く、それよりも遥かに古いものが日本で発見されている。しかも日本の物は質や量において、他の地域の物より際立って良質です。
人間が文化的生活をする上で必須の器を基準とすると、日本文明が世界最古である、と論ずる学者も少なくありません。残念ながら、日本人にはいないのですが。

かつては緑の大地であったチグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河、州域のように木の伐採を推し進め、自然破壊を続けて砂漠化させた土地では木を燃やして食器を作るなどという事にはならなかったのでしょう。農耕や牧畜では森を切り開かないと出来ないので、仕方がないところでもありますが。日本でも縄文時代から稲作などの農業が行なわれていましたが、

6000年前の縄文時代の遺跡から、稲作の跡地が見つかっております。プラントオパール分析法によって明らかになりました。島根県や鹿児島県の縄文時代の遺跡から、稲特有のプラントオパールが次々に見つかっています。つまり日本では6000年以上前から米が作られていたことは確実です。「水田は弥生時代である紀元前300年に朝鮮半島からやってきた渡来人によってもたらされた」というデタラメも、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)の縄文時代末期の土器だけが出土する地層から、一区画400メートルもある水田の跡が発見されています。更に佐賀県唐津市にある菜畑遺跡(なばたけいせき)からは、縄文時代末期の水田の跡と農機具が出土しています。放射性炭素年代測定によると、この水田は、遅くとも紀元前930年頃のものです。
つまり縄文時代末期には。日本では水田方式の稲作が定着していた事は確実です。
なので日本では3000年前から水田方式の稲作が行なわれていたのであって、渡来人とは何の関係もありません。
しかも、その他の水田の跡の遺跡からは、縄文時代の土偶や石の棒は見つかりますが、大陸の影響がありそうなものは全く見つかっておりません。ということは、日本列島における水田による稲作は普通に縄文人が始めたと考えるべきです。科学的年代測定法が進化したら、大陸の影響など全くなかった事がわかりました。
日本の歴史学者は「朝鮮から文化を教えてもらった」という事にしておかなければ、何か都合が悪いのでしょうか?

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