日本創生



「古事記」では、このように書かれております。

天地が混とんとしていた時、高天原(たかあまはら)と呼ばれる天の高いところに、三柱(みはしら)の神々が次々に現れました。

神様の数え方は「一人」「二人」ではなく、「一柱(ひとはしら)」「二柱(ふたはしら)」と数えます。森の木々にも神様が宿ると考えていた日本人らしい表現ですね。神道では木々を大切にしている事からもよくわかります。

三柱(みはしら)の神々とは、宇宙を統一する天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、宇宙生成を司る高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)。その後も天や地において、次々に神様が誕生しました。伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)も現れました。三柱(みはしら)の神々は伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)に天地開闢(てんちかいびゃく)を命じます。

「地上のありさまを見るに、まだ脂のように漂っているばかりである。お前たちは、かの国を、人の住めるように作りあげよ」

伊邪那岐神(いざなぎのみこと)と伊邪那美神(いざなみのみこと)は三柱(みはしら)の神々から天沼矛(あめのぬぼこ)を授けられ、天と地の間(はざま)にかけられた天浮橋(あめのうきはし)に立って、天沼矛を、渾沌とした大地に突き刺して、ぐるぐるとかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが、積もって淤能碁呂島(おのごろじま、「自ら凝り固まった島」)となりました。伊邪那岐神と伊邪那美神はそこに降り立って、淤能碁呂島で結婚し、大八島(淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐・対馬・佐渡島・本州の「八つの島」)を産み、その後もたくさんの子(島)や武甕槌命(たけみかづちのみこと)などの神々を生みました。
最後に火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産んだ際に、火の神であったために、出産時に伊邪那美神の陰部に火傷ができ、これがもとで伊邪那美神は亡くなって、黄泉国(よもつくに)に旅立ってしまいました。その後、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は怒った伊邪那岐神に十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」で殺されてしまいます。その血や死体からも様々な神々が生まれました。
伊邪那岐神は伊邪那美神を出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬します。なお日本書紀には伊邪那美命の生死や埋葬場所についての異伝も書かれています。

その後、伊邪那岐命は伊邪那美命に逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国(よもつくに)まで逢いに行くことになります。
黄泉の火で調理した料理を食べてしまった伊邪那美命は最初こそ夫の勧めを断るが、やはり愛しい夫が逢いに来てくれたことだから自分も帰りたいと考え、黄泉津神たちと話し合うことにするが、その間は「決して覗いてはいけない」と言います。しかしいつまで経っても伊邪那美命が帰って来ないため、伊邪那岐命は妻との約束を破ってしまうが、そこで見てしまったのは、腐敗して蛆にたかられ、八雷神(やくさのいかづちがみ)に囲まれた最愛の妻の姿で、その姿を恐れて伊邪那岐命は地上へ向かって逃げ出してしまいます。

追いかけてくる八雷神、予母都志許女(よもつしこめ)に髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実(意富加牟豆美命、おほかむづみ)を投げながら難を振り切ります。

最後に伊邪那美命が追って来たが、伊邪那岐命は黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を千引きの岩とされる大岩で塞ぎ、伊邪那美命と完全に離縁します。岩の向こうから伊邪那美命が「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と言うと、伊邪那岐命は「それならば私は産屋を建て、1日1500の子を産ませよう」と言い返した。

その後、這う這うの体で現世に帰って来た伊邪那岐命が黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと様々な神が生まれます。最後に、左眼から天照大御神(あまてらすおおみかみ)、右眼から月読命(つくよみのみこと)、鼻から建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の三貴子が生まれます。伊邪那岐命は三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任します。

しかし、須佐之男命が母親のいる「妣国根之堅州国」(ははのくに、ねのかたすくに)へ行きたいと言って泣き止まないため須佐之男命を追放し、伊邪那岐命自身は淡道の多賀の幽宮(かくりのみや)に篭ることになります。

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